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ザ・戊辰研マガジン

2022年02月号 vol.52 追悼特別版

夢の、また、、、夢  事務局 高橋美智子(HN 神保修理)

2022年02月05日 13:58 by minnycat
2022年02月05日 13:58 by minnycat

 「第50回記念 箱館五稜郭祭・戊辰戦争終結150周年記念」2019.4.20-10.27

『箱館五稜郭祭50回記念、戊辰戦争終結150周年の節目の年を迎えるにあたり、この機会を幕末・明治以来の先人達の歩みを振り返りながら、未来へ踏み出す新たな一歩と位置づけ、地域を挙げて「第50回記念 箱館五稜郭祭・戊辰戦争終結150周年記念」を開催することといたしました。 様々なイベントにおもてなしの心を添えて、皆様のお越しを心よりお待ちしております。』

 戊辰戦争の最後の戦いの地となった特別史跡「五稜郭」で、戊辰戦争終結150周年を記念する企画が催されていました。

 実は、この記念すべき五稜郭・戊辰戦争終結150周年記念に星先生の講演会の企画願を出す予定でした。それがこのコロナ禍のため、コロナ収束まで、手ぐすね引いて待っていたのです。2022年こそはと、待ちに待ち続けておりました。北海道は戊辰研の集会では未踏の地です。勿論、会員は数名おられますので、この機会に、是非、お会いしたかったのです。

 五稜郭の夢は、夢の、また、、夢で終わりました。残念で仕方ありません。

 星先生のHNは、榎本武揚、、星先生のお心も、箱館五稜郭へと向かっておられたのでしょう。心より、ご冥福をお祈りいたします。

              戊辰研・事務局 高橋美智子 (HN・神保修理)

「榎本艦隊の北行」

 慶応4年(1868年)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移す。

 5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。

 榎本武揚は新政府への軍艦の引渡しに応じず、4月12日、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。恭順派の勝海舟の説得で品川沖に戻り、富士山丸・観光丸・朝陽丸・翔鶴丸の4隻を新政府に引渡すが、開陽など主力艦の温存に成功した。

 7月、榎本に対して仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟から支援要請があり、8月20日、開陽を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸の運送船4隻)が品川沖を脱走し、仙台を目指した。

「蝦夷へ向かう旧幕府軍」

 品川沖を脱走する旧幕府艦隊 この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。

 榎本艦隊は出航翌日から悪天候に見舞われて離散し、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失いながらも9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。直ちに艦の修繕と補給を行うとともに、庄内藩支援のために千代田形と陸兵約100名を乗せた長崎丸を派遣した。

 しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏。庄内藩も援軍が到着する前に降伏し、これにより東北戦線は終結した。

 榎本艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船・太江丸、鳳凰丸を加え、桑名藩主・松平定敬、備中松山藩主・板倉勝静、唐津藩世子・小笠原長行、歩兵奉行・大鳥圭介、旧新選組副長・土方歳三らと旧幕臣からなる伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊などの兵を収容。榎本艦隊は官軍の仙台城入城を受けて、10月9日、東名浜から牡鹿半島基部の折浜(現石巻市)に移動。

 その際、平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣の救済のため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出する。

 旧幕府軍は4,000名あまりに膨れ上がったため、新政府軍は2,000名ほどの軍勢を石巻に向けて進軍させることとなった。戦闘になることを恐れた仙台藩は、石巻の豪商を通じて榎本武揚に大量の兵糧や物資を提供し、退去してもらうよう交渉した。

 榎本はこれに応じ、艦隊に精兵2,000あまりを抽出乗船させ、10月12日に折浜を出航し宮古湾に向かった。取り残された旧幕府軍は四散したが、逃げ遅れた100名以上の兵が新政府軍に捕縛されて浜辺で次々と斬首され、町に首が晒された。

 石巻を退去した榎本艦隊は、回天が気仙沼で幕府が仙台藩に貸与していた千秋丸を拿捕。宮古湾で薪を補給、10月18日、蝦夷地に向け出港した。

 箱館港には官軍の防備があるため、危険を冒しての敵前上陸を行わず、まず安全な地点に部隊を上陸させれば、兵力差のある新政府軍を野戦で撃破することは容易と考え、箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木を上陸地点とし、10月21日(グレゴリオ暦1868年12月4日)に約3,000名が上陸した。

「旧幕府軍の蝦夷地平定 箱館制圧」

 明治維新時には松前・江差周辺の松前藩領を除き蝦夷地の大部分は幕府が直轄し、箱館奉行が置かれていたが、新政府はこれに代わり、箱館府を設置した。幕府直轄時代には奥羽諸藩が蝦夷地に兵を派遣していたが、東北戦争に伴い悉く撤兵し、防備兵力は僅かな箱館府兵と松前藩兵のみとなっていた。

 かかる中、榎本艦隊の北行が判明したため、箱館府は援軍を要請、一番近い弘前藩から家老杉山成知以下4小隊が10月19日、秋田に入港していた福山藩兵約700名および大野藩兵約170名が野田豁通に率いられ10月20日に箱館に到着、これらで旧幕府軍を迎え撃つこととなった。

 旧幕府軍は上陸後、大鳥圭介率いる隊が峠下・七重方面から、土方歳三率いる隊が鹿部・川汲峠を経て湯の川方面からと、二手に分かれて箱館へ向けて進軍するが、無用な戦闘は意図しておらず、まずは箱館府知事・清水谷公考に使者を派遣した。新政府への嘆願書[注釈 1]をたずさえた人見勝太郎・本多幸七郎ら30名が先行するが、明治元年(1868年)10月22日夜、峠下に宿営中、箱館府軍の奇襲を受け、戦端が開かれる。

「五稜郭本陣 」

 新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。

 10月24日、人見たちと合流した大鳥軍が大野村と七重村で箱館府軍を撃破し、土方軍は川汲峠で箱館府軍を敗走させた。各地の敗戦を受けて清水谷公考は五稜郭の放棄を決め、新政府軍は25日に秋田藩の陽春丸とチャーターしたプロシアのタイパンヨー号に乗船し青森へ退却した。

 旧幕府軍は10月26日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させた。旧幕府軍は上陸後5日で箱館を占領することに成功した。なお、10月27日、旧幕府軍の箱館占領を知らずに入港してきた秋田藩の軍艦高雄を拿捕している。

「松前藩との戦闘」

 蝦夷地を本拠とする松前藩は、家老・松前勘解由の下、新政府に恭順を示す一方で奥羽越列藩同盟にも参加する日和見策を執っていたが、7月28日に尊王派の正義隊によるクーデターが発生し、新政府軍に付いていた。旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送るが殺され、戦うことを決意する。

 10月27日、土方歳三を総督として彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前城に向けて出陣。

 11月1日に知内で宿営中に松前藩兵の奇襲を受けるが撃退し、11月5日には松前城に到達した。その間、11月1日に蟠竜が松前を砲撃している。

 松前城は既に10月28日、藩主松前徳広が内陸の館城に移動しており寡兵しかおらず、搦手門から攻撃された城兵は城門を開いては大砲を発射しまた閉じることを繰り返す守備を行ったが、数時間で落城。松前兵は城下に火を放ち、江差方面へ敗走した。

「箱館政権の閣僚」 

 11月12日、旧幕府軍は星恂太郎率いる額兵隊を先鋒とする500名が松前から江差に向けて進撃。途中大滝陣屋を陥落させ、15日、江差に迫ると、すでに松前兵は敗走、江差攻略の支援に来ていた開陽を中心とする海軍によって無血占領されていた。

 しかし、この夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽は座礁する。箱館から回天と神速丸が開陽救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁。為す術なく総員退艦した開陽は数日後に沈没。これにより旧幕府軍は制海権の維持が困難となり、新政府軍の蝦夷地上陸を許すことになる。 他方、11月10日、松岡四郎次郎が率いる一聯隊など500名が五稜郭を発ち、二股を経て、松前藩主が拠っていた館城攻略に向かった。

 11月15日に館城は落城するも、藩主は11月12日に館城を退去、松前藩領北端の熊石へ退いていた。22日、熊石に到着すると、藩主は君臣男女60余名とともに船で弘前藩へ逃亡した後だった。残された松前藩士約300名が一聯隊に投降。これにより蝦夷地平定は完了した。

「箱館政権樹立」

 12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。

 総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、12月1日に蝦夷地の開拓を求める嘆願書をイギリスおよびフランスの軍艦に託したが、両国公使から嘆願書を受領した右大臣岩倉具視は、12月14日、これを却下した。また、旧幕府軍は、軍事組織を再編成し、来たる新政府軍の攻勢に備えて、江差、松前、鷲ノ木など支配地域の沿岸部に守備隊を配置した。

 なお、沈没した開陽の乗組員は開拓方となり、開拓奉行となった艦長・澤太郎左衛門とともに室蘭の守備と開拓に充てられている。

 なお、旧幕府軍は、軍資金を確保するため、豪商らから御用金を調達したほか、一本木に関所を設け通行税を徴収、さらに貨幣を私鋳したことなどから、箱館住民の評判は良いものではなかった。このため、箱館府にいた村山次郎の下、「遊軍隊」というスパイ組織が作られ、旧幕府軍の市中掛の下役や弁天台場に隊士として潜入した者もいた。

「背後への奇襲上陸・箱館市街の戦闘」

 一方、同日未明、豊安丸と飛龍丸に分乗した陸軍参謀・黒田清隆率いる新政府軍700名が夜陰に紛れて箱館山の裏側に上陸した。豊安丸の部隊は西北側の山背泊から上陸し、弁天台場の背後を脅かした。黒田直率の飛龍丸の部隊は西側の寒川付近に上陸し、絶壁をよじ登って箱館山の山頂に到達。山頂にいた旧幕府軍監視兵は驚いて遁走し、夜明けまでには箱館山を占領した。このとき、遊軍隊が箱館山薬師堂で奇襲部隊を迎え、山道の案内にあたった。

 新政府軍の奇襲上陸に対し、箱館奉行・永井尚志は弁天台場に入り守備を固め、瀧川充太郎が新選組、伝習士官隊を率いて箱館山へ向かった。しかし、山頂からの攻撃は圧倒的で、大森浜沖の陽春からの艦砲射撃もあって一本木関門付近まで退き、さらに五稜郭まで後退した。午前11時ごろには箱館市街は制圧されたが、弁天台場の旧幕府兵が材木屋に放火、瞬く間に火が広がり、872戸を焼失した。

  箱館市街を制圧した新政府軍は一本木関門方面に進出する。これに対して、土方歳三は孤立した弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死。さらに副総裁・松平太郎が箱館奪還を試みるが失敗し、五稜郭、弁天台場、千代ヶ岱陣屋のみが残るだけとなった。

 この間、箱館病院では院長の高松凌雲が、赤十字の精神で病院の非武装中立を謳い、敵味方の隔てなく戦傷者の治療に当たっていた。5月11日の戦闘の最中、新政府軍が病院内に乱入する。殺気立った新政府軍と患者を守ろうとする高松の間で押し問答が続いたが、薩摩藩士・山下喜次郎が高松の主張を聞き入れ、病院の門前に「薩州隊改め」の墨書きを残して退いた。 分院の高龍寺では非武装が徹底されておらず、松前藩兵・弘前藩兵により十数名が殺害、放火された。

 5月12日には五稜郭に対して箱館湾の甲鉄による艦砲射撃が始まり、古屋佐久左衛門が重傷を負ったほか、死傷者が続出した。また、旧幕府軍では脱走兵が相次いだ。 戊辰戦争終結 5月12日夜、新政府軍参謀・黒田清隆の命を受けた軍監・村橋久成、監軍・池田次郎兵衛が諏訪常吉の見舞いと称して箱館病院を往訪。諏訪に降伏交渉の仲介を頼もうとするが瀕死のため、高松凌雲らと協議し、高松と病院事務長・小野権之丞の連名で榎本に降伏を勧告する。

 榎本は士官以上を集めた会議の結果、5月14日、これを拒絶したが、灰燼に帰するには惜しいとして榎本がオランダ留学時に入手した、海事に関する国際法と外交に関する書物『海律全書』を黒田に届けさせた。同日、榎本は永井の口利きにより千代ヶ岱陣屋付近の家屋で軍監・田島圭蔵らと会見した。榎本は降伏勧告を改めて拒絶するが、五稜郭にいる傷病者の後送を申し入れた。250人の傷病者はその日のうちに湯の川へ送られている。

 弁天台場は艦砲射撃と背後の上陸部隊の攻撃に持ち堪えていたが、艦を失った海軍兵を収容していたこともあり兵糧が底を付き、5月15日、永井尚志以下240名が降伏する。同日、榎本は五稜郭に捕らわれていた新政府軍の捕虜11名を送り返した。

 千代ヶ岱陣屋の陥落 五稜郭の前哨、千代ヶ岱陣屋にも降伏勧告の使者が訪れていたが、箱館奉行並・中島三郎助はこれを拒否した。

 一方、小彰義隊長・渋沢成一郎が隊士とともに湯の川に逃走した。5月16日、五稜郭からの撤退命令も拒否して、中島は浦賀与力時代の部下らとともに最後の抵抗をする。1時間の戦闘で守備隊は壊滅し、中島三郎助は2人の息子とともに戦死する。これが箱館戦争最後の戦闘となった。

 5月16日、黒田は「海律全書」の返礼として、礼状と共に酒樽五樽・鮪五尾を五稜郭に送り届ける。榎本はこの厚意を拝受し、同日の夕刻、榎本側から軍使を遣わし、返礼と翌朝7時までの休戦を願い出る。政府側はそれを了承し、五稜郭に対する総攻撃開始の日時を通告した。休戦の間、幕府軍首脳側は合議の上、降伏・五稜郭開城を決定する。同夜、榎本は敗戦の責任と、降伏する兵士の助命嘆願の為に自刃しようとしたが、たまたま近くを通りかかった(介錯を頼む為、榎本が呼び止めたとも言われる)大塚霍之丞に制止されている。

 翌17日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、亀田の会見場[注釈 12]に出頭、陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願した。しかし、黒田は、幹部のみに責任を負わせると榎本を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、これを認めなかった。これ以上の戦闘継続は困難であった榎本が折れ、無条件降伏に同意。新政府軍が降伏の手順を明らかにする実行箇条の提出を要求してこの会談は終了した。

 その後、榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して一旦五稜郭へ戻り、夜には実行箇条を提出させた。 5月18日(グレゴリオ暦1869年6月27日)早朝、実行箇条に従い、榎本ら幹部は亀田の屯所へ改めて出頭し、昼には五稜郭が開城。郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了した。ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。

 なお、室蘭の開拓と守備に当たっていた開拓奉行・澤太郎左衛門以下250名は、22日に投降している(6月11日箱館着)。 箱館戦争供養塔 (函館市) 戦後処理 降伏した旧幕府軍の将兵は、一旦箱館の寺院等に収容された後、弘前藩ほかに預けられ、ほとんどが翌年に釈放。幹部については、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、永井尚志、松岡磐吉、相馬主計の7名が、東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄に投獄された(明治5年釈放)。       (以上、ウィッキペディアより)

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