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2022年02月号 vol.52 追悼特別版

星亮一先生、追悼  雨宮由希夫(書評家)

2022年02月05日 14:01 by minnycat
2022年02月05日 14:01 by minnycat

星亮一先生追悼                雨宮由希夫(書評家)

 星亮一先生が大晦日に亡くなられた。 昨年秋に、『運命の将軍 徳川慶喜 ――敗者の明治維新』 (さくら舎 2021年9月刊)が刊行された。星亮一先生、最晩年の著作の一冊である。

 書評家として、本書の書評をなし、先生のご笑覧に与りたいと念じていた矢先である。 今回、このような形で、会報に掲載させていただくことになるとは夢にも思わないことだった。

『運命の将軍 徳川慶喜 ――敗者の明治維新』、この本には元本がある。平成9年(1997)9月に刊行された『将軍徳川慶喜――「最後の将軍」の攻略と実像』(廣済堂出版)である。拙稿を書く上で、『運命の将軍 徳川慶喜 ――敗者の明治維新』を「新版」、『将軍徳川慶喜――「最後の将軍」の攻略と実像』を「旧版」と表記することを御赦し願いたい。 「新版」の「はじめに」に、「最後の将軍徳川慶喜とはいかなる人物で、日本の近代史にどのようにかかわったのか」とある。「旧版」は先生62歳の、「新版」は86歳の作品であり、四半世紀の時空の流れがあるが、この間ひと時も徳川慶喜に対する先生のご関心が薄れることはなかったのである。 振り返れば、「旧版」の「あとがき」で、先生は、

 ――明治維新の検証が十分に行われていない。幕府は何をし、慶喜はいかなる政治家だったのか。なぜ会津戦争が起こったのか。結局、明治維新とは何だったのか。明治国家は何をどう改革していったのか。

 と、矢継ぎ早に問題提起され、続いて、「青春の頃に読んだ島崎藤村の『夜明け前』」に、「慶喜が幕府は潮時だと自らの判断で大政を奉還し、ひどい血も流さずによく復古を迎えられた」とあることを紹介する一方で、

――勘定奉行の小栗(おぐり)上野(こうずけ)介(のすけ)は「せめて土蔵付売り家にしたい」と製鉄所や造船所の建設を急いでいた。その上野介も斬殺され、血を流さないどころではなく、大量の血を流し、妙な形の薩長独裁の明治国家が出来上がってしまった。決して『夜明け前』ではなかったのである。

  と述べ、「私は藤村流に幕末維新をとらえることはしない」と一刀両断している。 「新版」でも、藤村の『夜明け前』は引用されているが、引用部分が大幅に縮小されてしまっているのは残念である。青山半蔵の会話文や木曽馬籠の宿で「ええじゃないか」と踊るひとびとの描写もそのまま残してほしかった。 ともあれ、論調は変わらない。明治国家成立前夜の実態は断じて“夜明け前”ではなかったと。 明治維新がすなわち“夜明け”であり、近代国家をスタートさせた始点であったという認識は、一般の日本人にとって、ごく当たり前のものであろう。

 明治維新は腐りきった封建制を打破し、「善である薩長」が「悪である幕府」を斃した変革で歴史の必然であるとした明治政府が喧伝した“明治維新”像が今も生きている。明治維新が“夜明け”だとするなら、それ以前の時代には光はなかったのか。

 大坂城脱出から恭順までの慶喜の行動を“和平路線”のあらわれと見做し、“江戸無血開城”の勝海舟が賞揚され、「なにゆえ、一戦決し給わぬか」と慶喜に迫った小栗上野介は時代錯誤の“主戦派”として否定されてきたが、小栗の抹殺は歴史の真実に照らして妥当でないことは、小栗が衰亡の淵にある幕府の維持ばかりでなく将来の日本を見据えて全力で立ち向かった幕政改革の一事だけを見ても明らかであろう。 小栗上野介忠(ただ)順(まさ)は日本近代化のために心血を注いだ国際的視野に富んだ開明的幕臣であった。

 万延元年(1860)の遣米使節の任を終えて帰国し、外国奉行を命ぜられた小栗は、老中安藤信正に蒸気軍艦国産化の必要性を説き、また、横須賀製鉄所の構想を練っている。徳川時代の体制が硬直化していたことは認めるとしても、幕府が「悪の組織」で、幕閣の頭が頑迷固陋だけであったなら、以上のような対応はとれない。

 また、幕府には、慶喜を頂点としたいわゆる「大君制」国家の構想があったが、薩摩・長州は討幕の実力行使のみで新時代の理念を何も持たなかったし、明治維新政府はどんな国家を作るのかの青写真さえ持っていなかったのも事実である。それゆえに、岩倉使節団という奇妙な歴史的事象が発生することになる。岩倉使節団とは、岩倉具視を団長として大久保利通や木戸孝允ら創成期の明治政府の首脳らが明治4年(1871)11月から何と1年10ヶ月の長きにわたって、日本を留守にし、米欧12カ国を遊覧したことである。考えてみれば、これほどケッタイかつ無責任な”国家事業”はなかろう。まだ基盤の固まらない新生国家を放り投げて外遊したのである。救いは、この使節団の中には田邊太一、福地源一郎、川路寛堂ら旧幕臣の書記官がいたことである。幕末においては「外国方」に勤めた俊英であった彼らは、明治の世にあって脇役に甘んじたが、維新政府はこと外交の実務に関しては旧幕臣にすがりつく他なかったのである。 そもそも、明治維新とはいかなる変革であったのかは、この一事で計り知れよう。

 「新版」の「あとがき」で先生は結論付けている。

――見逃してならないことは慶喜という人物の卑劣な態度である。(略)西郷もそれを知っていながら会津に攻め込み、完膚なきまでに会津を叩いた。 幕末維新は、慶喜と西郷のからくりの歴史であった。 東北人である私にとって、明治維新は、慙愧で無念の歴史なのである。

 先生の代表作の一つに『小栗上野介』(成美堂出版 1996年)がある。

 今回、追悼文を書くにあたり、再読し、上州権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)の東善寺の小栗の胸像が彫刻家朝倉文夫の手になる作品であることを知った。谷中の朝倉彫塑館は朝倉文夫の旧居を美術館にしたものである。若いころ私は田端に住んでおり、谷中は日々の通勤路、散歩道であったが、小栗とのかかわりを知らず、朝倉彫塑館は通り過ぎるばかりであった。青春は恥多し。 先生とは一度もお会いしたことがなかったが、当会への入会を認めてくださったことに感謝申し上げます。先生とのやり取りはこの一事だけでありました。お会いしたいと思いながら、いつでもお会いできるという身勝手な安心感が身近な存在である先生との邂逅が永遠に不可能となってしまいました。慙愧の至りであります。   (令和4年1月30日記)

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