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ザ・戊辰研マガジン

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江戸の坂道(悲しい坂)

2022年01月05日 10:51 by norippe
2022年01月05日 10:51 by norippe

 東京には江戸時代に命名された坂道が500以上もあるが、名付け親の大半は庶民だった。日本坂道学会会長(ちなみに副会長はタモリ)の山野勝氏が語る。
 江戸の総面積の8割強を占める武家地や寺社地には名前がついていない。そこを訪れる際に目印としてちょうど良かったのが近辺の坂道。庶民が坂の印象などで自由に呼び習わし、やがてそれが俗称として一般的になっていったのだ。
 その印象は多岐にわたる。例えば坂の上からの眺望が命名理由になることもある。富士山が見える坂を「富士見坂」といったように、東京湾がよく見える坂は「汐見坂」(文京区根津など)、そして江戸市街が見える坂を「江戸見坂」(港区虎ノ門など)と名付けられた。
 急勾配の坂道は、胸を前に突き出す姿勢で歩かなければ上れないという理由から「胸突坂(むなつきざか)」(文京区本郷など)、墓地が近くにある坂道を「幽霊坂」(港区三田など)とも。港区六本木にある「多福坂(おたふくざか)」は、坂道の傾斜が中ほどで緩やかになり、再び急降下する様が顔の真ん中が低い「おたふく」のお面に似ているために、そう命名された。

 ちなみに、私が高校時代に通った道にも、誰が付けたかわからないが「なみだ坂」という坂がある。私が通った高校は、福島県の郡山駅から歩いて20分くらいのところにある男子校。電車通学で、駅を降りて学校まで歩くわけだが、私の通う学校のそばには、全国合唱コンクールで日本一に輝いた女子校がある。当然、電車で通う女子学生も、私達と同じ道を通って学校に通うのだ。
 郡山駅をまっすぐ行く桜通りという大通りを歩いても行けるのだが、なぜか人通りの少ない裏道を通るのである。男子学生と女子学生、毎日通う道なので、そのうちに顔なじみになり、時々、話しかけたりもする。しかし、学生とはいえお互いまだあどけなさが残る子供だ。おたがいどこか恥じらいを持ってモジモジと道を歩くのだ。道は途中長い下り坂になり、そして下りきると今度は長い上り坂になる。そしてその坂を登り切ったところの交差点を右に曲がると、私の通う高校の正門が目の前にあり、左に曲がると彼女たちが通う女子校になる。仲良く並んで歩いた道も、この坂を登り切ったところで、寂しくも悲しい別れとなる場所なのである。
 人は名付けてこの坂を「なみだ坂」という。噂によると、どうもこの坂の名前は、我が学校の先輩が付けたような話になっている。私の学校の先輩に作曲家の市川昭介さんがいるが、市川昭介さんが作曲して都はるみさんが歌った「夫婦坂」という曲がある。ひょっとすると市川昭介さんがこの「なみだ坂」の名付け親なのかも知れない。


桜の名所の禿坂(かむろ坂)

 話は江戸に戻すが、東京品川に禿坂(かむろざか)という坂がある。これも悲しい坂の話である。
 今から300年ほど前、人々に乱暴ばかり働いている平井権八という侍がいた。権八は、父親を侮辱した父親の同僚を斬るという罪を犯し、故郷の鳥取藩を追われ江戸に落ちた。そして権八はおいらんの小紫という恋人と出会う。一介の浪人にすぎなかった権八と、大名クラスの身分の高い人間しか相手にしなかった吉原の遊女小紫は、本来ならば出会うはずもなかっただろうが、運命の力なのか二人は出会い、そして恋に落ちてしまう。
 権八は小紫に会うためには大金が必要だった。権八は辻斬り強盗の罪を重ね、そして自分が手配中であることを知りながら小紫に会いに行き、ついに役人に捕らえられ延宝七年に鈴ヶ森の刑場で処刑されてしまったのだ。亡骸は目黒区にある東昌寺に葬られた。 権八の死を知った小紫は、遊郭を抜け出して権八の墓に行き「あなたとは夫婦になる約束でしたね……」と呟き、そして権八の後を追い自害したのである。この二人の悲恋は、歌舞伎や浄瑠璃の題材「白井権八」としても登場している。
 いくら待っても帰ってこない小紫を心配した店の主人は、小紫が一番可愛がっていた下働きの「かむろ」と呼ばれていた少女を東昌寺まで迎えに行かせた。遠い道をやっとの思いで寺まで辿り着いたかむろは、寺の人に聞いた。「小紫さんはどこですか?」「小紫はすでにこの世の人ではなくなってしまったのだよ…」。途方に暮れたかむろは、なすすべもなく、もと来た道を泣きながら帰って行ったのだ。
 帰る途中、突然藪の中から怖そうな男たちがかむろに襲いかかってきたのだ。近くには助けを呼べる人や家も無い。逃げ切れずついに力尽きたかむろは、目の前の池に飛び込み命を落としてしまったのである。
 この悲しい話を聞いた村人はかむろのことを可哀想に思い、亡骸を丘に葬ることにした。いつしか、この場所は「かむろ塚」、のちに「かむろ山」と呼ばれるようになったのである。


連理塚


比翼塚

 時代の発展とともにかむろ山は削られ池もなくなり、現在そのおもかげは坂道の名が残るだけとなっている。周辺には権八・小紫ゆかりの二つの塚、連理塚(安楽寺/西五反田五丁目)と比翼塚(瀧泉寺門前/目黒区下目黒三町目)がある。

坂には歴史があり、そして物語がある。だから坂は面白い。

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