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ザ・戊辰研マガジン

2022年1月号 vol.51

会津藩の子育て支援

2022年01月05日 10:53 by norippe
2022年01月05日 10:53 by norippe

 公明党が先の衆院選で、18歳以下の子どもを対象に所得制限なしで一律10万円を給付すると公約した。しかし、世論のバラマキ批判を受けて、自民党から所得制限を設けて給付するという意見が出され、結果、親の年収が児童手当の支給基準である960万円以上の世帯を除くことで合意された。
 しかし、今度は給付方法ですったもんだのひと騒動。10万円を現金一括給付、10万円を2回に分けての給付、はたまた現金5万円で残りはクーポン券で給付と別れた意見が出て、それぞれの自治体に委ねる結果となった。
 子育て支援は必要であるが、大半が貯金に回った昨年の10万円給付、経済効果を鑑み、クーポン給付は理解できる。しかし、莫大な経費と時間がかかることを考えれば、選択肢から外す自治体がほとんどである事はいうまでもない。深刻な少子高齢化を抱えた迷える日本、ぶれることなく、しっかりした方針で立ち向かってもらいたいものである。

 さて、少子化は今に始まったものではない。江戸時代の会津藩、少子化問題に対処した話があるので、ここで紹介しよう。



【子供手当を支給する会津藩の少子化対策】
 領民の人数は藩を支える大きな要因であるから、藩は働き手の確保には対策を立てたが、 産児対策にはそれほど重きを置いていなかった。当時庶民、とくに農村部は経済的に苦しく、 子減らしのための陰殺、間引きの悪習が広く行われていた。それは母親自ら、また鬼婆と呼 ばれる産婆の手にかかり、働き手とならない女の子が多くその犠牲となった。
 このような悪習に対し、初代藩主保科正之は「産子を殺すことは不慈の至りなり」と教諭して以来、歴代藩主もたびたび間引き防止を指示していたが、あまり効果はなかった。実際、 貧しさからではないが、二代将軍徳川秀忠の側室の子として生まれた正之自身、あわや堕胎されるところであったし、現に最初の子は堕胎されていたのである。
 いくら藩主が教諭しても間引きは減らず、村に比べ比較的余裕のあった武士層や町方でも次第に増えていったのは、経済的な理由のほか道徳心の退廃からくる、不義密通や夫婦間の享楽的思想からとも考えられた。三代藩主松平政容時代の宝永四年(1707)には、産子 を殺した者は処罰するということも論議された。しかし家老らは罰を下すのは種々差し障りがあり、藩祖正之の教えにも「よく教えよ」とあるからと、罰則はもうけず、現状維持の臭いものに蓋で終わらせてしまった。差し障りというのは、武家からは処罰者を出したくないし、また不問に付したのでは町村の者と整合性がとれないというのである。四代容貞も延享二年(1745)一遍の教戒だけでなく、深く人の情に訴え慈悲心の発揚を促すお達しを出している。もっとも何度も出すということは、これが守られていない証でもあった。
 延享三年(1746)にはついに町奉行神尾大蔵が将来の人口減を心配して、少子化対策の意見書を提出した。それによるとこの50年間に町方の人口が16,700人余と、以前より4,000人も減少していること。さらに一年間の出生数が享保二年(1717)には4,000余人であったのが、28年後の延享二年(1745)には316人となり、この間約90人も減少していること。また一年に300人の出生はあるが、間引きされる子どもはその倍もあることと、詳細な数字をあげて提出したのである。そしてその対策として妊婦に手当てを与えるとし、財源や予算案まであげ対策案を上申した。これは統計まで掲げるなど、この時代にあって非常に卓見なものであった。しかし藩の上層部は聞く耳を持たず、また危機感も感じておらず却下されてしまった。
 安永期(1772~80)に入ると神尾の心配は現実のものとなり、人口の減少は更に顕著になってきた。天明七年(1787)には史上最少の116,421人と、最多時の享保三年(1718)に比べ実に52,796人、三分の一強もの人口を失ったのである。もちろんこれは間引きだけが原因ではなく、凶作飢饉も影響してはいるが、減るのは実に容易であるが増加には長い年月を要する。それでも対策が取られるのは、五代容頌の時代になってからであった。子の出来なかった容頌は、安永五年(1776)3,000俵の社倉米を財源に、困窮度の高い農民に一人年間米8俵を5年間与えることにしたのである。
 社倉とは領内各所に米を備蓄し、凶作や災害の被災者に与え、また福祉事業等にも利用された制度で、保科正之により明暦元年(1655)に始まった。
 その後産子養育の重要性は次第に理解され、寛政三年(1791)高久組の各村が産子養育金として200両余を拠出したのをはじめ、翌年には藩士横山滝右衛門組の侍が年間5俵の米を差出し、さらにこれにならう者が続々と現れた。上席の家老や若年寄も知行100石あたり2斗の米を、さらに容頌も年間250俵の米を産児養育のため支出することに決めた。同十三年(1801)には妊婦の夫の夫役免除を定めた。夫役とは15歳から60歳までの男子を徴して、各種土木作業などに従事させるものである。社倉米がわずかに給与されたが、この間自家の農作業は滞りこれも間引きの原因のーつであった。そこで妻の懐妊8カ月目から産後4カ月まで夫役免除、2子目の産後は8カ月まで、3子以降の産後は12カ月までとして産子養育の一助とした。享和三年(1808)会津地方で麻疹の大流行があった。容頌は麻疹を患った妊婦の多くは流産するということを聞き、その予防として藩医に薬を調合させ配布したこともあっ た。
 容領の年間の手元金は300両であったが、節約して残した1500両を少子化対策に使うよう遺言した。これにより町方の貧困者へも養育料が与えられることになった。他にも民間から篤志金を集め、郷村では各組ごとに運用されることになった。10歳以下の子どもが3人いる家庭には金銭や衣服料、手当米を、乳不足あるいは母親が亡くなった家庭には、乳飲み子料が与えられるなど手厚い対策もとられた。
 八代容敬時代になると今までの産子事業の検証が行われ、相当の予算の割りには産子が増えていないことが判明した。この反省をもとに妊婦の届け出、出産・死産の届け出、詳細な手当規則や役人の職責を明らかにし制度が一新された。文政六年(1828)三つ子が生まれた際には、50俵もの米が与えられた。
 民間でも産子養育に尽くした人物がいる。城下の東、善龍寺の住持得明(?~1805)である。奥会津の寒村に農民の子として生まれた得明は仏門に入り、熱塩の示現寺、会津坂下の定林寺を経て11代住持として善龍寺に迎えられた。間引きの悪習もよく知っており、 その対策として寺のある青木村の農民を諭し、村から米を出し合いこれを囲い、産子養育米 として貧民に分け与えたのである。のちこれが領内に伝わり、各村でも行われるようになった。また藩でも産児養育の手引書『子孫繁昌手引草』などの発行や、母胎保護のための流産防止薬などの無料配布も行い、ようやく官民一体となって少子化対策が推進されるようになった。

参考文献:会津えりすぐりの歴史

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