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ザ・戊辰研マガジン

2022年1月号 vol.51

会津藩から斗南藩へ

2022年01月05日 10:54 by norippe

 明治元年9月、おびただしい犠牲者を出した末、降伏した会津藩。藩主松平容保は謹慎。領地はすべて没収された。翌年、家の再興を許されるが、新たに与えられた領地は遠い北の大地。
下北半島の一部と五戸周辺。会津藩は斗南藩と名前を変え、二つに分断されて生き延びることになったである。
 斗南は風の吹きすさむ寒冷地で、土地はやつれ、米が作れるような場所ではなかった。そこに旧藩主と家族合わせて2800戸、17000を超える人々が追いやられたのだ。先祖たちの過酷な暮らしぶりがここで始まったのである。


「斗南藩、先人たちの遥かな轍を歩く」より

 斗南岡と名付けられたこの一帯を中心に開墾が始まった。しかし作物はほとんど育たず、人々は海藻やわらびの根で飢えをしのいだ。最初の冬を越せずに、餓死凍死するものがおびただしい数にのぼったと言う。


斗南会津会慰霊祭

 毎年6月、かつて斗南藩庁が置かれていた円通寺に人々が集まってくる。斗南藩士の4代目5代目の子孫たちである。明治3年6月に人々が下北に入植したことから、毎年この時期に慰霊祭を行ってきたのだ。
 会津戦争から三十三回忌を迎えた時、ようやく立てた招魂碑に祈りを捧げた。戊辰戦争で賊軍とされ、数々の苦難を強いられた会津。集まった人たちは明治維新150年を祝うことに違和感を覚えるという。


斗南藩資料館


木村さんと資料館

 会津から来た木村成忠さんの曾祖父は斗南藩の記録係を務めていた。その貴重な遺産を後世に残そうと、木村さんは資料館を作っている。
 中でも大切にしているのは藩主だった松平容保の書状だ。書かれたのは明治4年。この年廃藩置県によって斗南藩はわずか1年4カ月で終わりを遂げた。容保は家督を継がせた息子を容大とともに東京に行くことを命じられる。


元会津藩士に送った書状

 会津落城を経てなお固い絆で結ばれてきた元藩士たちに送った言葉。容大はまだ三歳。容保公が代筆した書状である。
 「このたび、私たちは東京へ行くことを新政府より支持され、将来的にあなた方と苦労を共にすることが出来ないことは私の気持ちとしては耐え難いけれども、新政府の命令であればやむを得ないことと思う。これまで若輩者の私が罰せられなかったのは、つまりあなた達が敗戦の苦境の中でも会津を守るために奔走され努力された結果であることと私は大変嬉しく思います。」
 容保親子が去った後、人々はそれぞれの道を歩み始めた。もう帰る家もない会津に戻る者、新天地を求めて北海道に渡る者、この地に残ったのはおよそ50戸。その中から教育や政治の分野で活躍する人たちが生まれた。下北に根を張り、新たなふるさとのために力を尽くしていったのだ。



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