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mikiの幕末・明治史跡めぐり帳、「横井 小楠」 誕生地 と 「宮部 鼎蔵」 旧居跡 ②

2021年12月22日 22:13 by minnycat
2021年12月22日 22:13 by minnycat

『「横井 小楠」 誕生地 と 「宮部 鼎蔵」 旧居跡 ②』 の続きです。

 宮部さん家をご紹介したいと思います。 【 熊本市内坪井町 「宮部鼎蔵旧居跡」 】 この宮部鼎蔵の旧居跡は、 おそらく熊本市内坪井町にありました。

 ここは宮部さんが兵法師範役のころの旧居あとで 九州遊歴中の吉田松陰もここを訪れています。 宮部さんのご紹介もいたしましょう。 宮部さんについてにご紹介は、 学研 『 図説・幕末志士199 』 から引用させて頂きたいと思います。

『 安政元年(1854)年、吉田松陰がペリーの軍艦に潜入し、アメリカ渡航を企てているという知らせを聴いた宮部鼎蔵は、帯刀を交換してその行を励ました。

 宮部は嘉永3年(1850)、九州遊歴中の松陰と相知り、以来、松陰の熊本の同志として東北歴訪にも同行した。

 松陰がアメリカ密航を企てていた同時期、宮部は  「攻守和戦の策」を論じて建白書を提出した。しかしそれは藩吏に受け入れられず、失望して隠居、門人の教育に力を注いだ。

 文久3年(1863)、清川八郎の勧めで上洛した宮部は、薩摩藩尊攘派の指導者、有馬新七と連絡を取る一方、摂津地方の海岸を視察し、絵図、防禦策を提出した。

 元治元年(1864)、上洛し勤皇志士の重鎮として活躍していたが、同年6月5日、池田屋における会談中、新撰組に襲われ自刃した。

 新撰組隊士は尊皇攘夷運動の重鎮たる宮部鼎蔵を捕らえようとしたが、宮部は捕らえられることを良しとせず自刃したと伝えられる。

 宮部は、儒学を基本に山鹿流兵学を修め、林桜園に師事して国学、神道を学んだ。

 弟春蔵も尊皇攘夷運動に参加、禁門の変で久留米の真木和泉らと自刃している。』 宮部さんに関係する他の史跡もご紹介。

・ 宮部さんが新選組に襲われた池田屋騒動の跡↓

【 京都市 「 池田屋騒動之祉 」 】 どうでもいいような情報ですが、 この碑の後ろにあったパチンコ屋さんはつぶれたらしいです。

 宮部さんの弟春蔵が真木和泉とともに自刃したとされる場所が↓です。

【 京都府乙訓郡大山崎町 「 宝積寺 」 三重塔前 】 【 「 宝積寺 」 内 にあった十七烈士の位牌 】 緑丸でかこってある所に、春蔵の名前があります。

 以上が、 『 「横井 小楠」誕生地 と 「宮部 鼎蔵」旧居跡 』 についてでした。 お恥ずかしながら、 このお2人のことはそこまで詳しく知らないので これからお勉強をしたいと思います。

今回、引用・参考させていただいた資料は ・ 学研 『 図説 ・ 幕末志士199 』 ・ 肥後評論社 『 肥後熊本が生んだ幕末の偉大な先覚者 横井小楠」 ・ 熊本で入手したパンフレット です。(代筆 minnycat)

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