バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…

ザ・戊辰研マガジン

2022年1月号 vol.51

おやじのブログ、その7 〈松平容保九代会津藩主となる〉

2021年12月22日 22:12 by minnycat
2021年12月22日 22:12 by minnycat

〈松平容保九代会津藩主となる〉

 「会津松平家譜」に『弘化三年(1846)6月11日、容敬の養子となって、江戸の上藩邸(和田倉門内)に入った。12歳であった。後に正室になる容敬の娘・敏姫は4歳、飯 野藩主保科正丕(まさもと)の三女・照姫15歳(容敬の養女)であった』とある。

 容保は嘉永三年(1850)2月、16歳で元服し、翌年6月初めて会津の地を踏んだ。しかし、翌年正月早々、容敬が病臥の報せを受け、急ぎ江戸に戻ったが、2月10日、容敬は不帰の人となった。これによって容保は同閏2月25日、九代藩主に就いた。

 安政三年(1856)9月に敏姫と結婚するが、5年後の文久元年(1861)10月、敏姫は江戸の上屋敷で病死する。19歳であった。容保は天保6年(1835)12月29日、高須藩主・松平義建(よしたつ)の7男として江戸四谷の藩邸で生まれた。母は古森義孝の娘・千代。

 松平容保 容保を6男としているのは、容保の兄(6男)が命名する前に死亡しているので、これを数えないからである。容保には10人の兄弟と9人の姉妹があったが、4男8女は夭死していう。

 父の義建は文武に秀でた才能(幹)があり、多芸多能なんで、和歌、絵画、茶道、謡曲から陶芸などまで堪能であった。 -◇- 容保は前藩主の「海防」について継いでいくこととなる。 房総(富津)、品川沿岸警備 会津若松市史7 会津の幕末維新から (代筆 minnycat)

関連記事

星亮一先生のことと私の会津についての少しばかりの知識

2024年春季号 vol.5

【史跡を巡る小さな旅・十二】目黒通り

2024年春季号 vol.5

【史跡を巡る小さな旅・十三】行人坂(ぎょうにんざか)

2024年春季号 vol.5

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…