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ザ・戊辰研マガジン

2021年09月号 vol.47

会津藩士進撃隊三番砲兵隊の鹿目幸之助、その孫の鹿目善輔隊長、善輔隊長の甥の鹿目一郎

2021年11月25日 17:50 by tetsuo-kanome
2021年11月25日 17:50 by tetsuo-kanome

【「会津人群像」(2014年№27)】

 私は、たまたま「ヤフーオークション」で「会津人群像」の「白虎隊の真実」特集号に目をとめて、落札しました。「白虎隊の真実」の内容も素晴らしかったですが、それよりも「横須賀の中の會津」特集を読んで驚きました。私と同姓の「鹿目(カノメ)さん」がたくさん出てきました。もう私の目は、3人の鹿目さんに釘付けでした。それが、会津藩士進撃隊三番砲兵隊の鹿目幸之助孫の鹿目善輔、そして鹿目善輔隊長の甥の鹿目一郎氏です。 

 文化7年(1810年)会津藩主松平容衆公が幕府の命令を受けて、三浦半島の海岸警備並びに台場構築の任務が始まりました。当時、漂流民の引渡と通商を求めて日本沿岸に出没する外国船に対して、鎖国をしていた徳川幕府が外敵からの江戸城を防衛するためでありました。幕府は多くの大名から敢えて会津藩にこの大役を命じたのは同藩に対する信頼が篤かったためと考えられ、そうした幕府の期待に応えるべく、藩主は直ちに八百余名の藩士並びにその家族を同年11月に送りこみました。そして、会津藩は観音崎・浦賀平根山・城ケ島に台場を構築しました。文政3年(1820年)12月にその任務は解かれたが、その間、会津藩士はいずれも一家を挙げて、居をこの地に移して海防の任務に当たりました。彼らにとって、はじめて経験する異郷での十年間にわたる生活は厳しいものであったにちがいありません。

【会津藩の東京湾警備の模様】

 こうして、会津藩士たちにとりましては、三浦半島はなじみがある土地となりました。

 会津藩士の鹿目幸之助(カノメ コウノスケ)は、弘化元年(1844年)若松城下、城南の小田町に生まれ、松平容保公が京都守護職に就く際に、お供として従い、藩主容保公を警固しました。時に19歳でした。1868年(慶応四年)の戊辰戦争が始まるや鹿目幸之助は朱雀泰隊に編入された。戦況は会津藩に不利となり、城内にて「進撃隊」を結成し、鹿目幸之助は三番砲兵隊となり、「南門の戦い」で砲兵隊として活躍しました。1868年(慶応四年)9/22会津藩降伏後、生き残った会津藩士達は猪苗代に謹慎となり、鹿目幸之助は、猪苗代を経て越後・高田に送られ、「海潮山高安寺」にて謹慎しました。

【海潮山高安寺(越後高田)】

 明治3年(1870年)4月、会津藩士たちはようやく謹慎が解かれ、鹿目幸之助は猪苗代へ帰り、刀を鍬に変えて百姓の仕事に就いたが仕事になじめず、7月妻を伴って、かつて会津藩士が10年間駐留した浦賀への移住を決意し、親戚一同に別れを告げて浦賀に移住しました。鹿目幸之助は、「宇治諸国 商處 雅松軒」の大看板を掲げ、銘茶陶磁器商と して浦賀で帰商し「鹿目茶舗」を開業しました。古老の話として明治十四年五月、明治天皇が 観音崎砲台視察のため浦賀に御臨幸されたとき、途中の鴨居の会津屋 高橋勝七方で休憩され、このとき、鹿目茶舗のせん茶を献上したという話も残っている。浦賀は、海岸警備の経験からなじみがある土地であることから、穴澤、鹿目、橋本家等の旧会津藩士の移住者があり、それぞれ商人や議員に転じて名を残しています。

 浦賀に移住しました鹿目幸之助のもとに、明治20年代の冬、松平容保公と山川浩(元会津藩家老、陸軍少尉)が静養に訪れ、浦賀在住の元会津藩士たちと冬のある日を釣り糸を垂れ、のんびりと過ごしました。その際に、松平容保公が和歌を読み、鹿目幸之助に残しました。

 「冬日 浦賀にきたりて 容保」

 「この里は のどけき春の心地して 冬とは さらに 思はざりけり」

【松平容保公の和歌】

【最後の会津藩主松平容保公の和歌を保存している鹿目幸之助の玄孫の鹿目一郎氏

 鹿目幸之助は、その後、鹿目常吉と改め、松平容保公の七男で松平家第十二代当主の松平保男氏とも交流がありました。

【松平家第十二代当主の松平保男氏】

前列中央の軍服姿が「松平保男氏」で、その左隣の和服姿が「鹿目幸之助」です。

 そして、この元会津藩士の鹿目幸之助の孫で、数奇な人生を送った鹿目 善輔(カノメ ゼンスケ)について紹介します。

【鹿目 善輔】

  鹿目善輔は、海軍兵学校第四十四期、海軍大学校甲種二十七期。軍務局第二課・兵備局第三課長を経て、開戦直前に軍令部先任副官、のちに大湊警備府参謀長。終戦後は大湊地方復員局長、横須賀地方復員局残務処理部長、その後、米海軍横須賀基地警備隊(Base Civil Police=B.C.P.)の日本人警備隊長。鹿目善輔は、明治三年(1870)浦賀に移住した會津藩士鹿目常吉(幸之助)の孫として、明治二十六年(1893)神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市浦賀)で生まれた。大正五年(1916)に海軍兵学校を卒業後、少尉候補生として軍艦「常盤」に乗り組み、北米および南洋諸島を回航。 大正六年(1917)十二月に海軍少尉任官、大正八年(1919)十二月中尉昇進、大正十一年(1922)十二月一日海軍大尉昇進と順調に昇進し、昭和二年(1927)十二月一日に海大甲種学生、翌年十二月海軍少佐に昇進。昭和四年(1929)十一月三十日には軍令部副官。昭和十四年(1939)には海軍大佐として「天龍」艦長となった。その後軍務局二課長に転じ、開戦時には軍令部副官と大本営海軍副官を兼任した。その後大警備府参謀長を経て、昭和十九年(1944)十月海軍少将昇進、翌二十年(1945)二月には十二航艦参謀長を兼任した。昭和二十年(1945)九月二日、降伏調印式を終えた連合国軍(米軍)は、旧横須賀鎮守府を米軍の補給基地として強化していくことを決定したという。そして、占領に際して基地内に臨時で設置された「補給部」や「修理部」を十分に警備する必要性が生じた。警備の対象、それは我々日本人である。このことは基地内に侵入して物資を窃盗する輩や労務提供者による窃盗が当時いかに多かったかを示していると同時に、異なる言語環境における両国人の不容易な摩擦、事故からの回避が目的でもあったと思われる。このため当初は横須賀警察署などから若干の警官を派遣して日本人労働者らの取り締まりを行っていたが、米軍は更に、「永久的な警備力を保持」して、禁制品の不正持ち出しや火災防止の見廻りなどを徹底する方針を伝えた。このため横須賀基地司令部では昭和二十一年(1946)六月一日に、市民から30人程度の警備員を募集し、派遣されていた警官と交代させることになった。 彼等の身分は一時期武装解除局の管轄下に置かれたが、ベントン M.デッカ-大佐が基地司令に就任すると、昭和二十一年十月にはこれらの警備員は警備隊として米海兵隊基地警衛隊(Marine Guard)の隷下となった。 発足当時の警備隊は100名程度であったが急速に増員し、三個小隊(隊長1、副隊長3、分隊長16、分隊伍長36)を編成する規模にまで拡充されていった。鹿目善輔が警備隊長に就任したのはまさにその頃であった。大湊地方復員局長であった鹿目は、昭和二十二年(1947)一月一日には横須賀地方復員局残務処理部長に就任し戦争の締め括りにあたっていたが、程なく当時の基地司令・デッカ-大佐の目にとまった。当時、米海軍横須賀基地内には既に8000人に及ぶ日本人労働者が勤務していたが、鹿目善輔の軍歴に目をつけたデッカーは、日本人による警備隊の編成を鹿目善輔に「懇願」した。鹿目善輔もこれを受け入れ、昭和二十三年(1948)二月に自ら警備隊長に就任し、日本人による基地警備隊(Base Civil Police=B.C.P. 現CFAY Security, Civil Guard Force=C.G.F. ※米海軍横須賀基地 憲兵司令部警備隊)の組織化を進めた。 警備隊の主な任務は、①弾薬庫や倉庫の警備、②重要庁孫舎の警備、③警備艇による海上沿岸警備、④ジープによる基地内巡回警備等で、警備管轄区域は基地内に留まらず、田浦、追浜、衣笠、久里浜、吾妻島等の米軍施設所在地一帯と、極めて広い範囲を網羅していた。また、日本人労働者(後の駐留軍従業員)に対するパスの発行や基地に出入りする車両の検査等も警備隊の任務であった。隊内教育も徹底しており、七段階の階級制度が定められた。このように警備隊のシステムを一から構築していったのが鹿目善輔であり、「警備隊の勤務を通じて日本人の米人に対する国際信用を高める-米人をして真の日本人の特性を理解せしむる」というのが彼自身のモットーであった。ところが昭和三十二年(1957)頃、「病欠者を不当解雇」、組合に対する不当干渉だとして「横暴な基地日本人警備隊長、鹿目善輔を追放せよ」と全駐留軍労働組合(全駐労)横須賀支部から退陣を要求されるという事件が発生した。当時500人の日本人警備隊員が在籍していたが、うち240人が鹿目善輔の禁じていた組合に加入し、基地ゲート前で警備隊員が制服姿のままストライキを行うという前代未聞の大騒動にまで発展した。労基署に告発され、さらに地労委にも提訴された鹿目隊長であったが、新聞社の取材に対し「組合の要求には応じられない。断じて自ら身を引くようなことはしない。鹿目善輔が六十余年間、間違ったことは一つもしていない」と断固主張した。なるほど彼の主張はこうである。「我々警備隊はマリン(海兵隊)に附属した準軍事組織である。此の組織を乱さんとする者があったら隊長の責任に於て断固たる処置を執らねばならぬ。自分たちは米軍の一部である。SRF(艦船修理廠)やPW(公共事業部)とも、一般労務者とも異なる。そういう自覚が彼等にはない、処分されるのは当然の帰結であり、隊長である自分を不当とするのはおかしい」という考え方である。当時、鹿目の自宅周辺にも「鹿目、馬鹿目」と書かれた張り紙を沢山貼られたと、遺族は語っている。この間題に対し当時の基地司令であるトーレイ大佐は、基地内苦情処理係に対し強制労働を強要されたという問題が出されていなかったことは不思議だとしたうえで、「こちらとしては鹿目隊長を全面的に信頼している」とコメントした。基地司令が動かないことにはどうにもならない、結局この間題はこれ以上大きくならず、鹿目隊長の解任は一切なかった。米軍基地関係者は鹿目隊長の実直な性格と勤務態度、強い使命感から、彼を高く評価していた。このため昭和三十五年(1960)九月二十一日、鹿目善輔が現役隊長のまま敗血症で亡くなると、彼の死を悼み「功績を称え霊を慰める」ため、日本人基地従業員に対する初めての、そして「異例の」追悼「サンセットパレード」が米海軍横須賀基地司令部の主催で行われた。「サンセットパレード」は昭和三十五年(1960)十月十三日夕刻、多くの米海軍将校およびその家族、そして沢山の日本人参列者の見守る中、厳粛に行われた。海兵隊音楽隊、海兵隊一個大隊、日本人警備隊二個小隊、そして軍用犬シェパード等の大部隊が、観閲台の故鹿目隊長夫人及び令弟の前を粛々と行進して敬礼を捧げ、W・K・ダペンポート海兵隊司令による日本語の挨拶のあと、海兵隊音楽隊により日本の楽曲数曲が演奏されて厳粛なセレモニーを終えた。式に参加した当時の海上自衛隊横須賀地方総監・福地誠夫(海兵五十三期)は、日本人に対する異例のセレモニーに際し「日本人として」また「旧帝国海軍の後輩の一人として」、「感激の涙を禁ずることが出来なかった」と記している。

【鹿目 善輔隊長】

 鹿目善輔隊長の甥にあたるのが鹿目一郎氏(91歳)です。鹿目一郎氏は西浦賀で「鹿目茶舗」を営んでおりましたが、高齢のため2020年に閉店しました。現在は、横須賀市野比で鹿目一郎氏の末弟が「鹿目茶舗」を営んでおります。浦賀に、幕末ペリー来航時の狼狽ぶりを風刺した狂歌、「泰平のねむりをさますじやうきせん たつた四はいで夜も寝られず」の 蒸気船にかけた「上喜撰」 という当時と同じ製法で作られた煎茶の銘柄が現在も野比の「鹿目茶舗」で販売されております。明治14年、明治天皇が観音崎砲台視察のため浦賀に御臨幸された際に、「鹿目茶舗」の「上喜撰」の煎茶が献上されました。

  鹿目一郎氏のお宅の近くの東福寺裏山の叶神社管理地に鹿目家の墓碑があります。墓文には 「鹿目家ハ旧会津藩士也、明治三年当浦賀町エ移住ス、 旧墳墓は岩代国若松市南町真宗明栄寺在リ当時ノ戸主 鹿目常吉ハ幼名ヲ幸之助ト云ヒ字ヲ忠屋ト稱ス」とあります。

【鹿目家の墓碑】

【鹿目茶舗(野比)※鹿目一郎氏の末弟が営業中】

【蒸気船にかけた煎茶「上喜撰」】

  私は、「三浦半島会津藩士顕彰会」がFacebookにあることを知り、早速メッセンジャーで事務局の方とやりたりをすることになりました。毎年秋に、浦賀・鴨居の会津藩士墓所へ慰霊参拝やその他交流行事を行っていたそうですが、コロナ禍の中、なかなか難しい状況とのことです。

【三浦半島会津藩士顕彰会・慰霊参拝の様子】

【会津藩士の墓の看板】

 コロナが落ち着いたら、横須賀市西浦賀の鹿目一郎さんを訪ね、鹿目家のルーツについて教えて頂ければと思っております。私と遠い親戚かもしれません。明治天皇に献上されました鹿目茶舗の煎茶「上喜撰」も、もちろん購入したいと思っております。また、鹿目善輔隊長は、アメリカ軍基地の警備隊長でした。偶然にも、私の94歳になる父親も、福島県警では警備部門に長く在籍しました。何か運命を感じざるを得ません。これから鹿目家のルーツ発掘が楽しみでなりません。

【記者 鹿目 哲生】

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