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青天を衝け 20・21回  いろいろ感想!

2021年08月31日 17:19 by katsukaisyu

 幕臣渋沢と新選組

 23回からパリ編になるようなので、英一の幕末京都編もこの22回で終了なのでしょう。もう少し、徳川家家臣の渋沢視点での幕末の情勢をドラマ化してくれたらとは思います。パリの英一一行と平行して、京や江戸、箱館での渋沢成一郎の活躍も描いてくれますでしょうか。大政奉還はドラマ化して、見せてくれるようです。

 さて、慶応2年7月20日、14代将軍徳川家茂が大坂城本丸銅(あかがね)御殿で亡くなりました。死因は心臓機能の低下・不全(衝心、しょうしん)を併発した脚気衝心で、享年21歳の若さでした。甘い物が大好きな将軍で、虫歯が一杯だったとか。京都~大坂を往来する淀船に乗船した際、途中の枚方付近の名物くらわんか餅を、何度か地元の人が家茂に献上したという記録があります。わざわざ、餡餅(あんもち)献上と記されているので、餡餅が特にお好みだったのかもしれません。他に、金平糖もお好きだったと伝わります。

 本人も、周りも、さすがにこの若さで亡くなるとは考えてもいなかったことでしょう。紀州徳川家の若様に生まれて、そのまま過ごせば、英邁(えいまい)な殿様(by勝海舟)と言われて、機嫌よく過ごせたでしょうに、幕末の動乱の中、将軍になったものだから、激烈な人生になってしまいました。ご本人が選んだわけではないでしょうにねぇ。13代将軍家斉の孫なので、宿命でしょうか。

 一橋慶喜が、徳川宗家は継ぐものの、将軍職はいやだと頑張っていたのも、気持ちはわかります。貧乏くじは間違いないです。ただ、この若い将軍のやむを得ない交代と、慶応2年12月の孝明帝の急な崩御(享年36歳)による天皇の交代は、幕末期の情勢の大きなターニングポイントになりました。この二件がもしなければ、そう簡単に幕府は崩壊しなかったでしょう。どちらに転ぶのが日本にとってよかったのか、悪かったのかですが、天の配剤と言えなくもないです。

 英一は、話を聞いてくれた殿様が上様になり、遠い存在になったことを嘆いていました。所帯の小さい一橋家から、日本一の大所帯の徳川宗家の家臣になったのだから、それは、まぁ、そうでしょう。そんな幕臣渋沢に一つの任務が舞い込んできました。そう、幕臣大沢源次郎捕縛の一件です。これは、英一自身が回想録で語っているエピソードです。ただ、本人が「雨夜譚」で語っているのは、護衛に来てくれた新選組のリーダーは近藤勇ですが、晩年の英一を世話していた姪の語り残した話に登場するのは、近藤ではなく、土方歳三の方で、こちらが史実なのでしょう。

 京都大徳寺(秀吉が信長の大葬儀を執り行った寺です)の塔頭の一つを旅宿にしていた大沢が、謀反を起こすようだとの知らせで、任務により捕縛に向かったものの、案外、あっさり大沢を取り押さえることができたと、英一は語り残しています。ドラマのセットの寺の門に、大徳寺と表札がかけてありました。

 ドラマの中では、かなり派手に斬り合いをやっていました。そこは新選組の出番なので、見せ場がないとね。踏み込む前は、一人で頑張ると強がっていた英一も、実際の斬り合いでは、もっと早く助けに来るのかと思っていたのにと、土方に文句を言っていました。英一は強気で大沢の旅宿に捕縛に入ったものの、内心、びくびくもので、待ってました新選組!なのでしょう。残念ながら、町田啓太さん演じる土方は、「待たせたな」とは言ってくれませんでしたが、いやぁ、筆者も新選組の登場を待っていました。  この英一が語り残してくれたエピソードは、新選組が具体的に京でどういう仕事をしていたか、その一端がわかるおもしろい話です。次回からはフランス使節団一行の財布を握る英一のパリでの活躍?が楽しみです。

    写真は、大阪城天守閣の上から見た、家茂が亡くなった本丸、銅御殿付近です。当時、すでに落雷により天守閣は無く、家茂は天守台に登って、大坂の町を眺めていたという話が残されています。  天守閣のすぐ下には、元治元年に天保山を台場化した折に置かれた大砲が、明治期に移設されています。

    現在の大阪城大手門に向かう道ですが、2019年までずっと工事をしていました。G20の直前に工事用の囲いが取れて、やっと工事は終わったと思っていたら、来阪中のG20出席の各国首脳の夕食会場に大阪城西の丸がなり、驚いた覚えがあります。幕末の絵に描かれた大手門への道を再建したようで、そっくりです。大手門を入って、本丸に続く道を歩くと、桜門に出ます。秀吉時代から、大坂城の正門は桜門でした。天守閣がうまく額縁に入りました。桜門を入ると、本丸になります。

   城内には将軍家茂の終焉地を示す石碑はありません。本丸跡の北西隅に設置された銘板にのみ、家茂が長州征討の折、指揮を執ったと記されています。ぜひ、終焉の地を示す石碑が欲しい所です。これだけ大河ドラマで家茂の死去は大坂城内と、繰り返し放映してくれるのですが、大阪ではなかなか建碑は難しいです。大阪城公園の土地は国有地です。

 桜門の向かい側に修道館がありますが、この辺り、旧二の丸です。先日、桜門へ向かう道ではなく、修道館脇の道なき道を歩いていたら、今まで気が付かなかった銘板をみつけました。慶応3年1月、鳥羽伏見の戦い後に大坂に戻ってきた新選組が、当所に滞在したと記されています。大阪城に何回行ったか数えられないぐらいですが、初めてこの銘板を見たので、驚きました。目立たない所にあるからですが、もっと、道近くに置いてくれたらと思った次第です。

 

            京都二条城です。その東側にあったのが越前松平家藩邸で、近年、ホテルが改築されて、石碑が外されていたのですが、ホテル完成と共に、藩邸跡碑と橋本左内寓居跡碑が再設置されました。元あったホテルの駐車場にぽつんと置かれていた旧公家邸のりっぱな門が、新しいホテルの正門に出世しました。二条城の方を向いていたホテルが、二条城に背中を向けて改築されました。

      二条城の南側、若州屋敷跡です。一橋慶喜は二条城に入る前、空き屋敷になっていた若州屋敷に入りました。この屋敷、二条通から三条通までの広大な敷地でした。一橋家に仕官した英一と喜作が共同生活をしていた下士用の長屋も、この敷地内にあったことでしょう。右側の写真は、当地に展示されている若州小浜藩邸の古写真です。

    こちらは若州屋敷跡の東側にある来迎寺です。今回の大河ドラマには登場しませんでしたが、慶喜上洛に帯同した江戸の火消し一家、新門辰五郎たちがこちらに滞在していました。  ありがたいことに、境内には、辰五郎が建てた石碑が残されています。

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