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戊辰戦争 見えてきた実像(朝日新聞 2018.10.22)

2021年05月21日 08:14 by tetsuo-kanome

 私の自宅の会津藩関係ファイルに何気なく保存されていた「戊辰戦争150年」の年の「朝日新聞の切り抜き」を読み返しました。二回にわたって、あの朝日新聞が「明治新政府の列島掌握を決定づけた、戊辰戦争の開始から150年。時を経たことで可能になった史実の検証や、かつての敵味方の融和を目指す試みもある。敗者のこだわりが色濃く残る東北各地の動きを報告する。」と特集したのであります。もう、この記事についてご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、改めて、紹介したいと思います。

「列藩同盟、奮戦の記録も」

 東日本大震災の前年、戊辰戦争の様子が分かる磐城平(たいら)藩士16人の記録が福島県いわき市の子孫宅で見つかった。そこには、奥羽越列藩同盟の戦いぶりが記載されておりました。

 

「会津藩士埋葬 新政府が命令」

 会津若松市史研究会副会長の野口信一さんは、2017年、会津藩が降伏した明治元年9月22日の10日後に新政府が命令し、会津藩士らが埋葬を始めたことを示す史料「戦死屍取仕末金銭入用帳」の存在を明らかにしました。10/3~10/17、567人の遺体を64ヶ所に埋葬したと書かれておりました。これまで、会津藩士らの遺体の多くは新政府の埋葬禁止により、半年間野ざらしにされたと会津では伝えられておりました。この説を会津の人々が信じた背景について、野口氏は、「昭和40年代以降、会津藩の正当性や悲劇性を訴える小説やドラマなどが発表された。そうした中、会津の悲惨さや西軍の残虐さを強調するうえで、埋葬禁止説が浸透していった」とみております。

 

「民衆の被害 実態伝える試み」

 激戦地の一つだった秋田県大仙市は企画展で、豪農だった旧家に残されていた古文書などを特集しました。当時の仙北軍内5915軒のうち1136軒が焼失した記録があった。夫と子が出陣した横手の女性は、夫の死の知らせが首と共に届けられ、「あまりのことに泪も出ず」と手記に綴られていたそうです。

【秋田での戦いを描いた絵】

※左下に複数の首が描かれてあります。

【開戦150年上 東北の史料から(朝日新聞)】

  

 翌日の朝日新聞では「東北各地の思い」と題し、「開戦150年下」が掲載されました。

 大見出しが『戊辰の傷跡 雪解けとしこり』です。

 この中では、「激戦の白河で合同慰霊祭」が、2018年7月に、山口県萩市と鹿児島県鹿児島市の市長も出席し開催されました。まさに、恩讐を乗り越えました。

私は、この記事が気になって、インターネットで「白河市合同慰霊祭」の詳細について調べました。その内容を紹介します。

 戊辰戦争で、会津藩などからなる奥羽越列藩同盟軍と、長州藩などの新政府軍が激しく戦った「白河口の戦い」(1868年)の犠牲者を弔おうと、戦場となった現在の福島県白河市で、両軍ゆかりの山口県萩市や鹿児島市などから首長らが出席し、合同慰霊祭が開かれました(2018年7月14日)。戦いでは小峰城をめぐる攻防が約100日間にわたり、1千人以上が亡くなりました。慰霊祭は戦いから150年になるのを機に、白河市の鈴木和夫市長が呼び掛けて、実現しました。萩市の藤道健二市長は、両軍の兵が一緒に犠牲者を慰霊した「白河踊り」が山口県に伝わることに触れ「150年前からの縁を大切にし、先人の思いを次世代に伝えたい」とあいさつしました。参列者は読経が響く中、祭壇の碑に献花して手を合わせた。鹿児島市の森博幸市長は「薩摩兵を供養し続けてくれている。心から感謝したい」と述べました。慰霊祭には首長や市民ら約1千人が出席。当時の安倍晋三首相が「白河は(両軍の)恩讐を超え、融和をもたらした」とするビデオメッセージを寄せました。白河市内では、数多くある両軍の犠牲者の墓や慰霊碑を、地元の住民が弔い続けております。白河会津戊辰戦死墓管理会の加藤正信会長(67)は「両軍にとって、国を思い、国のために戦ったことは同じ。われわれにとって官軍も賊軍もない」と強調しました。山口県萩市の医師で、「長州と会津の友好を考える会」の代表を務める山本貞寿氏(79)は、会津の地元住民との交流を20年以上続ける。山本氏は「一朝一夕に歩み寄りは進まない。時間はかかるかもしれないが、地域レベルの交流を活性にし、できることを続けていきたい」と話していました。

【写真の左から萩市長・白河市長・鹿児島市長・二本松市長の握手】

【合同慰霊祭の模様】

 いやぁ、戊辰戦争150年の2018年に白河市でこのような合同慰霊祭が開催され、福島県の白河市長、二本松市長が、萩市長と鹿児島市長と固い握手をしていたのは全く知りませんでした。個人的にはまさに『歴史的な大きな第一歩』だったと思います。 素晴らしいの一語です。

 一方、仙台市では2018年10月6日に開催された「戊辰の役150年 全殉難者慰霊祭」の内容が変更された。全犠牲者を対象とした記念碑の序幕を予定していたが見送られた。式典前に、地元議員から新政府軍の戦没者も含むのは問題とする意見が出たためです。

【見送られた除幕式】

 「敵味方問わずに」として、新政府軍の象徴的な存在に感謝の思いを抱き続ける地域が山形県にある。鶴岡市で西郷隆盛と九庄内藩の藩主や中老の子孫三人が集う講演会があり、西郷の人物像を語り合った。庄内藩は、江戸薩摩藩邸焼き打ちの中心で、戊辰戦争では「朝敵」として征伐の対象だった。しかし、戦後の処分で領地を大幅に削減された藩もある中、献金で済んだ。寛大な処置は西郷の指示と知った旧藩士らは鹿児島を訪れ感謝したそうです。

 福島県二本松市は、戦没者慰霊祭の対象を同盟軍だけでなく、戦った新政府軍の犠牲者にも広げることにした。「150年の節目に、敵味方という言い方はせずに命を落とした同じ立場として慰めることにした」そうです。

 私は、この二つの記事を改めて読んで、一人でも多くの方にこれらの事実を知って頂きたいと思いました。あの朝日新聞が眠っていた歴史の一つ一つを取り上げて、特集を組んだことは素晴らしいことだと思います。特に、白河市長の呼びかけで、萩市長と鹿児島市長が合同慰霊祭に出席され、固い握手をしたことは大きな大きな出来事だったと思います。会津若松市は、依然として萩市とは民間での交流が中心で、一昨年会津若松市政120周年で初めて萩市の藤原市長を招待し出席しましたが、残念ながら握手と和解までにはいきませんでした。ただし、萩市長が会津の地に来たことは、一歩前進だったと思います。未来志向でいつの日か会津若松市長と萩市長が笑顔で握手する姿を期待したいと思います。

【記者 鹿目 哲生】

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