十津川郷士⑦(御親兵多難-政変勃発)
禁裏御守衛に上洛する郷士の第一陣百余名の選抜が終わったのが、文久三年八月九日。 ちょうどこの日、京でもその郷士らを収容する「十津川屯所」がようやく開設されました。 御所に近い寺町通三条下ルの「円福寺」です。
この頃、京には主税らを追って思い思いに上京してきた勤王派がすでに七十人ほどいて、 今出川出町の旅宿「伊勢屋嘉吉」方に屯集していたという。主税は九日の朝、それらの郷 士達を引率して円福寺に移動、山門に「十津川郷士宿陣所」の標札を掲げ、朝廷から下腸 された郷の紋章入りまん幕を張り巡らせて、屯所の体裁を整えました。ここに十津川から 来る百余人を合わせるとほぼ、二百人になると主税は算段していました。 常時二百名前後の郷士を収容する宿陣だから、諸藩の藩邸同様、独立した施設をもちたいが、経済的にも時間的にもそんな余裕がない。やむを得ず、朝廷の口利きで円福寺の本 堂と庫裡の大半を暫時借用することにしたという。
※のち、屯所を転々と変わった十津川郷士達。私は、その原点といえる「円福寺」を 是非とも訪れたく調べてみたのですが、天明八年(1788)元治元年(1864)の大火災に 続き、さらに明治維新の際には広い境内地はほとんど没収され、円福寺は本山としての 様相を失い、現在はわずかに円福寺町という町名のみが残っているとのことでした。
ともあれ、十津川からの本隊が屯所に合流したのは文久三年(1863)八月十六日でした。 この本隊は西久左衛門、千葉佐中(田中主馬蔵実兄)の引率で、十二日に十津川を出発 、河内の三日市を経て十五日夜、大坂、天満の八軒屋から乗船、翌十六日朝、伏見に上 陸し、屯所にたどり着いたのは七ツ時(午後四時)ごろだったといいます。 在京組と併せて総勢百八十人、禁裏守衛の御親兵第一陣がようやく勢揃いしたことになり ます。
明けて六ツ半(午前七時)一同は円福寺の門前に勢揃いし、寺町通を二列縦隊になって 御所へ向かいました。折よく雲一つない晴天で、先頭を行く菱十印の旌旗が朝日にやわら かく映え、軍鼓の音も勇ましく行進したようです。
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