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【幕末維新折々の記・十八】新島旧邸(新島襄と八重の住まい)

2021年06月06日 23:25 by tange

 新島夫妻は、明治11年(1878)、現在の京都市上京区寺町通丸太町上ルに自宅を建てた。
 そこは、新島襄が8(1875)年11月に同志社英学校を開校した地で、言わば同志社発祥の地である。
 新島は、自宅を建てるにあたり、宣教師W.テイラーの助言を得ていた。しかし彼が、この住宅誕生の過程において、最も意見を求め一緒に考えを巡らしたのは、他でもない妻・八重だった。 つまり新島旧邸は、夫妻の共同作業で生まれたと考えるべきなのだ。

 日本の近世農家において広く普及していた平面形式として、四つの部屋を漢字の田の字のように配置した「田の字型平面」がある。四部屋に付属するように土間があり、そこは炊事場であり、冬季には屋外でできない軽作業の場となる。「田の字型平面」の特長は、廊下などの動線部分を省略し広さを有効に利用できることや、各室を仕切っている建具を撤去すれば一室の大きな部屋となり、多くの人々が寄り合うのに適していることなどである。
 新島旧邸の平面を見ると、まさに「田の字型平面」であることが分かる。
 田の字の中心にストーブを置きまっすぐ上へ温風を送れば、一、二階の各室に対するセントラルヒーティングも容易に実現できた。一階の応接間と食堂の間は建具で仕切られているが、人数の多い会合の時、それを外して大きな一室として使用していたのであろう。さらに一階では、農家で土間であったところにフローリング張りの台所、風呂場、便所などの水廻りが設けられている。
 ところで、安中藩板倉家の江戸屋敷で生まれ育った新島襄は、田の字型平面の農村民家を知っていたであろうか。会津藩士の娘として生まれ東北で暮らしていた八重は、それを身近に見ていたはずである。新島旧邸の「田の字型平面」は、八重の提案だったのではないか。

 この住宅が語られる時に必ず外観は、新島の留学先だった米国のコロニアル様式であるとされてきた。
 コロニアル様式の住宅とは、米国がイギリス、フランス、オランダ、スペインなど欧州列強の植民地であった時代に、各地で建てられた住宅の総称である。それらは、宗主国の住居様式や米国内の自然条件、調達資材などの違いで、形状が異なり一様ではなかった。従って、彼が永く過ごした北部マサチューセッツ州と南部諸州とでは、全く違った住宅になるのだ。
 本当に新島夫妻は、自宅をコロニアル様式で建てようとしたのか……そうではないと思う。夫妻は、自宅の姿を思い描いていた時、もっと合理的に思考していたはずだ。
 京都の冬の寒さには、当時として画期的なセントラルヒーティング設備で対応した。
 厳しい夏の暑さには、床下の風通しと直射日光を避けることで対処しようとした。そこで、一階の床を少し高くし、太陽高度が高い夏の日差しの遮へいに軒先を深くすることを考えた。
木造建築において、床を高くすることは昔から普通にやられてきたが、軒先を深くすることは構造的にかなり難しい。確かに寺院などの屋根は大きくはね出しているが、それを支える部材として小屋裏で大きな木材を大量に使用している。その構造方式は、住宅の規模では経済的にとても採用できない。
 そこで夫妻は、軒の先端に荷重を受ける柱を立て、小さな部材で大きく屋根を外壁面から出すことを考えた。まず屋根を寄せ棟にすることで先端の高さを同じにし、東、南、西壁面の外側に柱を立て、通常の住宅よりかなり深く軒を出すことができた。その柱を利用してバルコニーを設け、それが一階の庇を兼ねる。さらに開口部外側には日除けのための鎧戸(よろいど)をつけたが、それは室内に吊るすカーテンと比べて日差しに対する遮へい効率がはるかに高い。
 かくして、高床、寄せ棟屋根、壁面外側の柱列、バルコニー、鎧戸などを外観上の特徴とする新島夫妻の住まいが誕生した。それは、より快適に暮らすということを希求した二人の思考の結果であり、現代にも通じる大変に優れた住宅なのだ。
 かつて米国の南部に数多く建てられた住宅の外観と少しの類似点があるだけで、新島旧邸をコロニアル様式と呼ぶのは全く間違っている。

 新島襄は、12歳の時、非常な出来事に遭遇している。安政2年(1855年)に起きた安政江戸地震である。江戸市中で約七千人が命を失った。また、毎年のように江戸の町を襲う台風も恐ろしかった。彼は、自宅を建てるにあたり、耐震性や耐風性についてかなり気を配ったと思われる。
 伝統的な和風家屋であれば、屋内と庭の一体性を重んじ南側と東側が開け放されるように、南東の角に壁を設けないのが普通である。ところが彼は、南東ばかりか一、二階各部屋のほとんどすべての角に幅90㎝以上の壁を設けている。その壁量は、一般の木造家屋と比べて圧倒的に多い。直角に配された壁は、南北、東西いずれの方向の揺れにも、大変有効に働いている。地震や台風に備えてのことである。

 新島夫妻の住まいは、二人で考え二人で完成させたのだが、そこで生活を共にしていた期間は10年余りであった。新島襄は、明治23年(1890)1月、大磯にて他界。八重は、その後もこの住宅に住み続け、昭和7年(1932)6月、ここで永眠する。享年87。
(鈴木 晋)



新島旧邸、南東側の外観

 
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