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ザ・戊辰研マガジン

2021年05月号 vol.43

「坂下門外の変」の怪

2021年05月06日 09:51 by norippe
2021年05月06日 09:51 by norippe


坂下門

 1月15日、午前10時頃、お堀端にある安藤邸を出た行列は坂下門へ向かった。護衛と道具方50名からなる共連であった。
 襲撃のリーダー格である水戸藩浪士平山兵介は、安藤信正の行列が襲撃位置に達するや、斬奸趣意書を高々と掲げて行列の最前列へ走り、仲間に相図する算段であった。しかし、坂下門近辺は各大名家がまさに登城しようとしてかなりの雑踏であった。これに遮られ、平山の行動は他の仲間の視界には入っていなかったかもしれない。


事件直前の坂下門

 そして、平山がその次に取った行動は、懐から拳銃を取り出して、安藤の駕籠目がけて引き金を絞った。この銃声が合図となって、坂下門前の死闘が開始された。激しい乱闘となったが襲撃同士六名、その全員が激闘の中斬死を遂げたという。安藤は背中に傷を負ったが、安藤側に死者は出なかった。
 志士六名のそれぞれの懐にあったはずの斬奸趣意書は、戦いの中で逸失され、あるいは、幕府の検死の段階で衆目から隠されたようであった。


斬奸趣意書

 この日、志士の一人川辺左次衛門は時間に遅れ、現場に到着したのは事件後のことであった。そして川辺左次衛門は襲撃現場から立ち去り、その足で長州藩邸の桂小五郎を訪ねた。そして桂に後事を託し、割腹自刃して果てたのである。
 左次衛門が持参していた斬奸趣意書は椋木八太郎が起草し、訥庵が添削したものとされる。この中で、安藤老中の政策は外国に屈するばかりで朝廷を軽んじ、暴政ばかりである、このままでは亡国は明らかであるので安藤老中を斬殺する、幕府には攘夷を行い、万民の困窮を救うことを望む旨が述べられている。この斬奸趣意書が残され、その写本が尊攘志士の間に広く伝えられたのである。

 老中安藤信正の暗殺未遂事件「坂下門外の変」、その以前に実行された大老井伊直弼の暗殺事件「桜田門外の変」と比べると、事後に大きな違いがあるのがわかる。

 桜田門外の変 
 斬刑は6名   病死はゼロ
 有村冶左衛門  自刃
 佐野竹之介  斬死
 鯉渕要人  自刃
 広岡千子治朗  自刃
 齋藤監物  重創死
 高橋多一郎  自刃
 有村雄助  切腹
 金子孫治郎  斬刑
 森五六郎  斬刑
 森山繁之輔  斬刑
 蓮田市五郎  斬刑
 黒沢忠三郎  斬刑
 関鉄之助  斬刑


 桜田門外の変で捕らえられ牢獄の入獄者は安政6年11月、文久1年7月に斬刑が相次いだ。そして文久2年5月の関鉄之助が斬刑に処せられたのが最後であった。

 ところがどうだろう。坂下門外の変に関わって捕らえられた者は全員が病死である。斬刑になったものは一人もいなかったのである。

 坂下門外の変 
 斬刑はゼロ   病死は5名
 平山平介  斬死  
 河野顕三  斬死  
 河本杢太郎  斬死  
 黒沢五郎  斬死  
 川辺左次衛門  自刃  
 横田藤太郎  病死  文久2年6月11日
 児島強介  病死  文久2年6月25日
 大橋訥庵  病死  文久2年7月12日
 石黒闇斎  病死  文久2年8月7日
 菊池教中  病死  文久2年8月8日


 捕らえられた者たちは、わずか2ヶ月の間に全員が病死しているのである。

 文久の政変、文久2年1月15日、坂下門外の変で負傷した老中安藤信正は、3ヵ月後の4月11日に罷免されて失脚する。罷免の理由は、事件で受けた背中の刀傷が武士道にも劣るとするもの、米国のハリスとの贈収賄。女性問題など、事件後の安藤の評判は誹謗中傷を交え地に落ちて行った。実際には幕府内の権力闘争の結果であったのだろう。
 安藤と共に井伊大老亡き後の幕政の実権を握っていた老中久世広周は同年6月2日に免職。他の老中も三河岡崎藩主本田忠民が3月15日に、越後村上藩主内藤信親が5月26日にそれぞれ免職となっている。
 ほとんど総入れ替えと言ってもおかしくない閣僚の相次ぐ罷免は、徳川政権の長い歴史の中でもほとんど例を見ない。これは、政変あるいは無血クーデターと受け止めることもできる。そして、安政の大獄で謹慎を命ぜられていた福井藩主松平春嶽らが謹慎を解かれたのが文久2年4月。この後松平春嶽は幕政参与として幕政に参加するようになる。同じく蟄居謹慎を命ぜられていた一橋慶喜も赦されて将軍後見職となっている。
 坂下門外の変は襲撃こそ失敗したが、幕府内部の政変を促す効果があった。井伊→安藤=久世と受け継がれた反幕派への弾圧が、この政変により急速に緩和されたという政治上の背景があった。このため、本来であれば当然斬首とされるべき、坂下門外の変に参画した大橋訥庵や菊池教中などが赦免の形で出獄したのである。
 そして、2ヶ月の短い間に、坂下門外の変に関わった5名が相次いで病死しているのだ。
 これは何を意味しているのだろうか?


 思誠塾の塾頭である大橋訥庵は、一橋家近習の山本繁太郎に慶喜への上書取次を依頼するも、繁太郎が幕府に密告したため、一連の計画が幕府の知るところとなり、南町奉行に逮捕された。訥庵が逮捕されたことを受け、志士6名が老中安藤信正を襲撃した坂下門外の変が起きるわけだが、坂下門外の変以降、訥庵に関係する人間が次々と幕府に逮捕されていった。


思誠塾風景と塾頭の大橋訥庵(中央)

 伝馬町の獄舎の環境は劣悪で、同志の中には獄死する者が相次いだ。宇都宮藩家老間瀬和三郎らによる赦免運動により、同年7月8日に訥庵は出獄し宇都宮藩邸に入るが、当夜より急の劇疾に襲われ、7月12日、出獄後5日で病死したのである。死因は毒殺だと言われている。

 また、大橋訥庵の義弟である菊池教中であるが、義兄大橋訥庵に師事し攘夷運動に奔走、そして菊池教中も牢獄へ入獄。訥庵の急死の直後に、宇都宮藩の家老であった間瀬和三郎から獄中の教中に対し、幕府方からの薬は飲まぬようくれぐれも注意するようにと忠告を与えているのであるが、出獄後、宇都宮藩に預けられ病死となる。こちらも訥庵と同様、毒殺と言われている。

 宇都宮藩の江戸定府儒者で王政復古を唱える大橋訥庵に学んだ横田藤太郎、児島強介も捕縛され、獄中で病死している。

 こうして坂下門外の変に関わった人間が次々と不可解な死を遂げているのだ。

 病死か毒殺かという議論は今も続くのであるが、孝明天皇の崩御や薩摩藩主島津斉彬の死も病死か毒殺かで分かれるところである。

 毒殺事件は江戸時代に限らず現代も続いている。和歌山毒物カレー事件もそうであった。判決は出ても真相を掴むにはまだまだ謎が多く含まれている。

(参考文献:検証 坂下門外の変)

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