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会津の知られざる偉人~中野豊記~

2021年04月23日 06:30 by tetsuo-kanome

【薙刀の名手 中野竹子像】

【法界寺の中野竹子の肖像画】

【大河ドラマ「八重の桜」の中野竹子役の黒木メイサさん】

 新潟県上越市は、かつて越後高田藩が治め、戊辰戦争後に会津藩士を受け入れました。そこに高田北城高という県立校があります。2021年3月に発行された創立百二十周年記念誌で、一人の会津人が紹介されました。名は中野豊記。戊辰戦争時、薙刀を手に戦った中野竹子の弟です。戊辰戦争で鶴ヶ城開城後、城内で戦ったものは猪苗代へ、城外で戦ったものは塩川へ謹慎させられ農家などに分散して収容されいわば捕虜となりました。15歳以下の子供と婦女子は捕虜にならずにお構いなしとなりました。この塩川謹慎組1700名はその後、越後高田藩にいわば島流しとなりました。高田藩内には旧幕府側に対する同情が強く、御預の会津藩士についても新政府からの給費がごくわずかであったため、藩庫から多くの金穀を補填し、手厚く待遇しました。高田藩は15万石の大藩であるが、飛び地を含めてであり、財政的には豊かとはいえなかった。1700名分の食料調達は大変困難なものであったと想像されます。当時のおかずはたくあんと数の子であったと史料に遺る。今では数の子は大変高価なものであるが当時は入手が安くできたのであろう。しかし、肝心の1700人分の米の調達が大変でした。高田藩の重臣たちの苦悩のほどが偲ばれます。その後も流刑の土地で命を落とした会津藩士を地元の有志が手厚く弔い、「会津墓地」として今も遺る。戊辰150年の年に会津若松市の室井照平市長もその墓地を弔問しました。

 高田北城高の記念誌によると、中野豊記は、鶴ケ城の籠城戦を戦い抜き、開城後の詳しい動きは不明ですが、官立新潟師範学校で学び教師となりました。一九〇〇(明治三十三)年、北城高の前身である高田高等女学校の初代校長を六年間務めました。寺で開校したため十分な教育環境でなく、校舎の建設に奔走しました。中野豊記には「小学作法教授書」という著作があります。数年前に福島県の関係者からの問い合わせで会津出身と分かりました。記念誌に執筆した前校長は「自らを語らぬまま、信念と情熱を注いだ足跡を後世に残したかった」と話しております。会津若松市の室井照平市長も記念誌に寄稿し、「(中野は)姉竹子と同じく、会津の地で培われた信念と志を貫いた先人の一人。新潟県の教育界の発展に貢献したことは大きな誇り」と綴りました。

 東京帝大総長となった山川健次郎をはじめ、明治以降に教育分野で活躍した会津人は多い。中野豊記もまた艱難辛苦を乗り越え、人材育成を重んじた会津の魂を貫いたのだろう。知られざる「偉人」はまだいるはずだ。その歩みは、現在を生きる私たちに誇りと力を与えてくれる。

【中野 豊記の写真】

  会津坂下町の法界寺に眠る中野竹子に弟がおり、中野豊記は、戊辰戦争後、越後高田藩に身を置き、後に師範学校の教師となり高田北城高校の初代校長となったことは、私は全く存じ上げませんでした。今となって、このような事実がわかり、思わず嬉しくなってしまいます。会津にはまだまだ知られざる偉人がいるに違いありません。

【記者 鹿目 哲生】

 

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