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十津川郷士⑥(禁裏へ)その2

2021年04月26日 18:45 by tama1

「十津川記事」では、郷を訪れる志士たちは、文久元年、二年だけでも肥後の松田重助 を筆頭に土佐の北添佶麿ら三人、薩摩から江夏荘七ら三人、長州から村田二郎三郎 ほか二人など計十四人が来郷しています。

 彼らは一様に主税や野崎、深瀬などに会い、最近の京、大坂の情勢や自藩の動きなどを 語り、ぐずぐずしていると十津川郷士の出番がなくなるぞとばかり上京を勧めています。 それでも、主税は青蓮院宮さまからのお達しがないかぎり動かない、と決めていたので、 安易に動くつもりはなかったようです。 そんな思いでいた主税ら十津川郷士のもとに青蓮院宮から便りが届いたのは、文久三年 (1863)二月半ばでした。宮の執事伊丹蔵人からの、実に三年ぶりの手紙だったという。

 手紙には、永蟄居を解かれた青蓮院宮が昨年(文久二年)の暮れ、朝廷の国事御用係に 就任。年が明けるとすぐ還俗し、今は中川宮と呼ばれて政事の中枢に立つようになったこ と。江戸で収監されていた自分も、許されて宮の許に戻り仕えているとのこと。 そして、十津川郷の禁裏御守衛志願もようやく実現しそうな雲行きになったから、一度京 へ出てきたらどうかと書かれていた。 ”天誅”で京洛の治安が極度に乱れ、宮廷内でも不安が広がっているので、朝廷自前の 御親兵を創設し、禁裏の警衛を強化しようという、中川宮にとっても格好の初仕事と考え たようです。 当然のことながら郷内ではこの便りに沸き返り代表七人を京に送り込むことにします。 中川宮邸を訪れた七人は、連署の願書と中川宮の推薦書など必要書類を添えて御所の 「学習院」へ請願の手続きを取ります。

 評議はそんなにかからないだろうとの、伊丹の勧めで、上平主税、丸田籐左衛門、玉置 政左衛門の三人が京に残って沙汰を待つことにしました。 ところが、目算は完全に外れた。すぐにも下りると思っていた朝廷の沙汰が二ヶ月経って も一向に下りなかった。 しびれを切らした主税は学習院に出頭、伺いをたてたところ、三条西季知、錦小路頼徳の 二卿が引見し、提出済みの郷の由緒来歴などを、ことさらに下問した末に三日後に沙汰 する、と答え、喜んで指定の日に出頭すると、今度は別の公卿が引見して 「まだまとまらぬ、いずれ通達するからそれまで待て」という始末。 どうやら評議が紛糾しているのは解ったが、何故それほど揉めるのか、主税は要領を得 ぬまま、退出するしかなかったようです。

「堂上方は、それぞれに背後が複雑」「廟堂ほど魑魅魍魎、摩訶不思議な世界はない」 伊丹等の側面運動が実って、朝廷からようやく沙汰が下りたのは文久三年六月十一日 であり、出願から丸三ケ月要したことになります。 「十津川記事」や「十津川郷」の両書によれば、郷士代表四人は、長州藩の佐々木男也の 同道で学習院に参殿したところ、東園基敬(もとゆき)、壬生基修(もとなが)、万里 小路博房(ひろふさ)の三卿が引見、御沙汰書を下腸したとあり、御沙汰書には、大和 十津川郷士、往古ヨリ朝廷ヲ重ンジ奉リ、誠忠ノ輩少ナカラズ。方今容易ナラザル時勢ニ 候間、其ノ遺志相続ケ忠勤ヲ励ムベク候事とあった。

 かれらは早速、御沙汰書を奉じて十津川へ飛んだ。郷民にもれなく披露した上、郷内各村 庄司から、お受けする旨の署名を集め、朝廷に奉呈するためでした。

 「十津川記事」によると六月十五日の朝、ちょうど林村で行われていた庄司会議に駆け付 けた主税らは、御沙汰書を示して京での経過を報告、受書への連署を求めました。 ところが、どうしたことか、庄司らの半数以上が署名を拒んだ。その理由とは、すでに 五条代官所から触れ書が届いており、有事の際には人数三百人を出せということで、 そちらを優先しなければならないというのです。 十津川にも幕府よりの者もいました。主に各村の古老たちで、小川村の庄司森尾帯刀、 高津村の庄司高田織之進を中心にして結束を固め、主税たちが京へ出ている間に、徐々 に運動を拡大し、百五十人近い同調者を集めるまでになっていたといいます。

 会議は当然のことに紛糾。その日は結論を出せず、七日後再び開かれたが堂々巡りと なり、そのうち、守旧派のなかにこの一件を五条代官所に訴えた者がでたらしい。代官所 が主税らを呼び出して白洲で尋問する事態に発展。話し合いで解決することは、もはや 不可能となりました。

 紛糾一ケ月余、七月二十日になって、主税はついに全村庄司一致の連署を諦め、同調者 のみで受書を奉呈することにし、翌日、丸田藤左衛門、深瀬繁理ら六人とともに上京しま した。勤王派の郷士らもあとを追って続々上洛、その数は七十人を超えたというが、守旧 派はそれを阻もうと、数十名が五条へ繰り出し、京へ向かう勤王派の面々を代官所前で 阻止、一騒動を起こした、と「十津川記事」は伝えています。

 七月二十二日、京に戻った主税らは即日、朝廷へ御受書を奉呈しました。 これを受けて朝廷は二十五日、今度は待っていたかのように、異例の速さで御沙汰書を 下しています。 沙汰書の内容は ①京師滞在の郷士に玄米五百石を下腸する。 ②十津川郷の紋を菱に十字と定め、幕や提灯、旗印などに用いる。 ③郷士を参政方の配下に組み入れる。 上記、三点が記されており、日を置いて八月一日、追っての沙汰が下ります。

 「御所御見廻リ仰セツケラレ候旨御沙汰候事」というもので、宣旨といっしょに、 十津川郷の新しい紋章を染め抜いたまん幕一張りが添えられていました。 待ちに待った沙汰により、十津川郷士は晴れて朝廷の衛士になります。この結果、如何に 頑固な守旧派も、もう異議は唱えられまい。主税はさっそく、郷士の動員に当たる責任者 を選んで国元へ送ることにしました。

 帰郷の代表に選ばれたのは、千葉定之介、油上喜平次、佐古源左衛門の三人でした。 三人は御沙汰書を携えて即日、京を発ち、翌八月三日朝、五條代官所を訪ね、代官に 面会を求めました。御沙汰書がものを言って代官は三人との面談を受け入れます。 三人は御沙汰書を示し、郷士が集団で上京することへの道中許可を求めるとともに、強硬 に反対を続ける守旧派の説諭も依頼しています。守旧派の反対が「非常の際は、人数三百 名繰り出すべし」という代官の示達を根拠にしているので、代官所の方から説諭してもら うのが最上と考えたからでした。 翌日、代官は守旧派の指導者森尾帯刀、高田織之進らを呼び出し、名誉なことだからお受 けして全郷一致、朝廷に忠勤を励むよう諭した。

 「十津川記事」には「若シ此事ヨリシテ 自然不首尾ヲモ醸成セントキハ、余、先ズ屠複、以テ其過ヲ謝セン」と書かれ、つまり 責任は代官の私が持つというものでした。 こうなれば守旧派も同調せざるを得なく、結局、各村から屈強の郷士二名を選抜、京に送 ることに決まりました。選ばれた郷士百余名は八月十二日、五条に集合、第一次御親兵と して、京へ向かうことになりました。

 ところで、理解ある代官鈴木源内は、その五日後の八月十七日夕、五条代官所を襲撃した 天誅組により斬殺、梟首されます。その理由が「天朝を軽蔑セシ罪」(伴林光平)とは、 何とも気の毒と言わざるを得なく、歴史の残酷さを感じます。 ともあれ、安政元年(1854)一月、長沢俊平の勧めで、主税は今は亡き乾丘右衛門や野崎 主計らとともに、梅田雲浜を訪ねてから、今日まで約九年半も費やして悲願の禁裏護衛士 を達成するもこの先十津川郷士たちは、「天誅組の変」「八・一八の政変」「禁門の変」 「戊辰の役」など幕末の動乱に巻き込まれていきます。

 今回、ひょんなことから十津川郷士におおいなる興味と関心をもって、ここまで書き綴っ てまいりました。これまで、何度も申している通り、吉見良三著「十津川草莽記」を読み ①~⑥まで、ほぼ忠実に書き写してきているといったほうが正しいでしょう。

 この書は、十津川郷士のリ-ダ-上平主税の生涯を綴った、図書館での分類上も「小説」 となっています。ただ私は司馬遼太郎に代表されるような歴史小説とは思っていません。 「十津川記事」や「十津川郷」に忠実に沿ったノンフイクション史書と捉えています。 故に、これからも一貫してこの書を軸に書き進めてまいりたいと思います。

 十津川郷士たちの本当の苦難はこれからです。次回以降に続きます。

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