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ザ・戊辰研マガジン

2020年12月号 vol.38

内藤家時代の磐城平城

2020年12月06日 12:03 by norippe
2020年12月06日 12:03 by norippe

はじめに

 磐城平城は江戸時代、磐城平藩を治めた鳥居氏(一六〇二~一六二二年)、内藤氏(一六二二~一七四七年)、井上氏(一七四七~一七五六年)、安藤氏(一七五六~一八七一年)の歴代藩主の居城であるとともに、藩政の拠点であった。
本稿はこのうちもっとも長い治世であった内藤氏の時代に焦点をあて、その一部を紹介する。

1.築城の伝承

 本題に入る前に、内藤氏時代以前の城について触れておこう。
室町~戦国時代にこの地をおさめたのは岩城氏で、その居城は大館城であった。好間町下好間大館に所在したこの城の跡地は、平成二十九年にいわき市の史跡に指定されている。関ケ原の戦いののちに所領を没収された岩城氏を継いだのが、譜代大名の鳥居氏である。慶長七年(一六〇二)に入封し、元和八年(一六二二)までの二十年間を統治した。
 磐城平城は鳥居氏によって築かれたと言われるが、その様相は詳らかでない。鳥居氏治世下の古文書をはじめとする歴史資料がほとんど残っていないためである。今に伝わる築城の伝承は、明和年間(一七六四~一七七二)の成立と思われる満蔵寺住職恵南の著書『磐城九代記』に記載されているものである。すなわち、鳥居忠政が入封した際の大館城には崩れや破れがあったため、「城ヲ築ベキ處ヲ御見分ナサレ候処、飯野八幡宮ノ社地御覧被成候処、分内廣クシテ城郭ニモ可然處成ト思召」、現在地が候補にあがった。「八幡宮ヲ揚土エ引、宮ヲ造立シテ、右八幡ノ社ノ跡エ三階櫓ヲ立、城ノ要害ヲ配リ内城外城ヲ構へ(※史料の句読点等は筆者による)」たという。普請(工事)は難航し、領内に廻状を出して人柱を募った「菅波村丹後の人柱伝説」も同書に見える。
 文献史学の立場から言えば、一六〇年後に書かれた『磐城九代記』の史実としての信憑性は低い。鳥居氏時代に書かれたいわゆる一次史料が発見されていないため、右記の物語は伝承の域を出ない。史料の発掘が必須であることを付記しておく。

2.内藤時代の城郭

 豊富な一次史料により歴史が掘り起こせるようになるのは内藤氏の治世に入ってからである。内藤氏も譜代大名で、いわゆる転勤族であった。譜代大名は転封の都度、不要なものを廃棄して次の所領へ移る。幸いなことに内藤氏は、磐城平から日向延岡に移りそのまま明治維新を迎えたため、
廃棄する機会に恵まれなかった。よって藩政史料の多くが残され、その数は5万点にもおよぶ。延岡時代の記録が多く磐城時代の史料は数としては劣るものの、比較的、”良い”史料が残っている。これらの史料は昭和三十七年(一九六二)に明治大学が内藤家より購入し、現在は明治大学博物館の所蔵となって一般公開されている。いわき総合図書館に一部がマイクロフィルム化され閲覧できるので、興味のあるかたはぜひ御覧いただきたい。
 内藤氏時代の磐城平藩は表高七万石、実高十万六九〇石余、楢葉郡・磐城郡・磐前郡・菊多郡の四郡一五八ケ村(「郡村之寄より)がその所領であった。現在の福島県いわき市を中心に、双葉郡川内村、広野町・楢葉町・富岡町、すなわち福島県浜通り地方の南部がその範囲にあたる。正徳元年(一七一一)の人口は七四七五五人、家数は一三一〇九軒であった(「諸品覚書」より)。
 「奥織岩城平之城覚書」には、内藤家五代当主忠興の時代の城の概要が記されている。平山城で天守はなく、本丸は東西八十間(一四五.六m)、南北八十五間(百五十四.七m)であった。大手曲輪・大手外郭・煙硝曲輪・水の手曲輪・水の手外邦・二の丸・三の丸などがあり、それぞれの距離は内藤家が幕府に提出した城内の絵図の距離と基本的に一致する。
 絵図には城内に木が描かれているものがある。一般的に城の植樹は外からの目隠しや実用に資するためとされるが、平城にはどのような木が植えられていたのだろうか。元禄二年(一六八九)に植樹に関する達しが出されている。少々長いので城内に関する部分を意訳すると、
①枳(からたち)の実を採らせる事、
②御風呂屋曲輪土手の漆をとらせる事、同所の空地に漆の実を植えさせる事、
③ニノ丸より三ノ丸へつながる土手の下に漆を植えさせる事、
④城内そのほか空地に楮を植えさせる事、
⑤ニノ丸に栗と柿の台を植えさせ来春つがせる事、
⑥杉の苗を植えさせる事、
⑦空地に渋柿の木を植えさせる事、
⑧ニノ丸に茶の実を植えさせる事、
⑨同所空堀の蔀垣の裏を刈らせる事、
とある(「万覚書」より)。城内には、枳・漆・楮・栗・柿・杉・茶が植えられていたことが窺える。

3.災害と城普請

 平成二十三年三月の東日本大震災や令和元年十月の台風十九号など、福島県浜通りは最近も津波や洪水の甚大な被害に見舞われたが、江戸時代にも豪雨・洪水・地震・津波などの災害が度々おきている。「岩城御領内大風雨大波洪水
之節覚書」によれば、寛文十一年(一六七一)~延宝八年(一六八〇)の間に六回の天災に襲われた。城にも被害が出て、藩ではそのたびに幕府に修復願を出している。
 大名が普請をするには幕府に申請して許可を得なければならない。手順はこうである。
①まず損害箇所の調査をし、
②修復計画書と絵図を作成する。
③それらを幕府老中に提出し、
④老中の審議を受ける。
⑤老中審議で良しとされれば将軍に言上される。
⑥将軍が許可を出す。
こういう流れをへて、普請が可能となる。
磐城平城の堀の土手は平時においても崩れやすく、長年の懸案事項になっていたようである。土留めを石垣に変更する普請が多く見られ、急勾配の土手を削って傾斜を緩やかにしたり、切り下げて道を造るといった普請も行なわれた。もっとも大がかりだったのは延宝四年、大手臨輪からの出入口の木橋を土橋にし、虎ロ(城郭の出入ロ)を北に移動させ、かつ土手を削って道を造るものであった。勾配が急な土手に柱を立てて懸けた木造の橋は風雨に弱く、土台の土手もしばしば崩れた。この橋は南および西側から本丸へ入る唯一の橋であったため、一帯が崩れると難儀する。それを解消するための手当てであった。
しかしながら、普請は必ずしもスムーズにはいかなかったようである。貞享二年(一六八五)の「岩城之城修理願絵図」には、これまで願い出たもののうち二十五ケ所の完了箇所、十三ケ所の未完了箇所が図示されている。
 翌年の「奥州磐城之城絵図」では若干整理が加えられ、十八ケ所は完了、十一ケ所が未完了として報告され、終わっていない場所の普請願が再び出されている。

おわりに

 内藤家文書を紐解くと、修復には領民が携わり、家臣はもちろん領民がともに守り継承してきた城であったことがわかる。今年の夏、磐城平城本丸跡地の公園整偏にともなう発掘調査で本丸御殿の遺構が見つかったことは新聞紙面を賑わわせ、九月末に開かれた現地説明会は満員御礼だったという。中世の大館城と同じく史跡に指定して整備するとともに、歴史の舞台として学校教育や生涯学習、観光や憩いの場として上手に活用されていくことを望む。





2020年10月13日「いわきフォーラム ミニミニ講演会」で行われた講演の一部、「内藤家時代の磐城平城について」が機関紙「まざりな」に掲載され、許可を得て当マガジンに掲載させていただきました。

講師はいわき市文化財保護審議会委員の田仲桂さん

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