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ザ・戊辰研マガジン

2020年12月号 vol.38

【幕末維新折々の記・十二】江戸から東京へ

2020年12月06日 12:17 by tange

 慶応4年(明治元、1868)4月、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とした新政府軍は、さしたる戦いもせず江戸へ進攻する。新政府首脳部は、特に東北地方における不穏な情勢に鑑み、天皇の一刻も早い江戸への東幸を要請した。しかし、天皇が1000年余りも続いた京の都を離れることは、簡単に実現しなかった。大坂遷都を強く主張する者もいた。
 天皇は、9月20日、後見していた岩倉具視の主導により、2300の親兵に警護され御所を出て東京へ向かった。そして10月13日、江戸城・西の丸大手門からに入城し、その名称を東京城と改めた。なお、この西の丸大手門が、現在でも皇居正門である。
 7月に江戸は東京と改称され、9月に慶応は明治と改元されていた。

 東京都立中央図書館に「御酒頂戴」と題する三世・安藤広重の錦絵が所蔵されている。
 新政府は、天皇の東京への行幸を祝して、町民たちへ御酒2600樽を下賜する。「御酒頂戴」は下賜された酒に酔いしれている庶民の姿を巧みに表現した錦絵である。その絵を今鑑賞すると、時代の変わり目をとても良く捉えていることが分かるのだ。
 たったひと月ほど前、鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津軍が籠もった鶴ヶ城には、新政府軍から一日最大2500発ほどの砲弾が見舞われていた。城の南東に位置する小田山に大砲を据え、天守閣を目掛けての容赦ない砲撃だった。会津藩が徳川家の恩情を重く受け止め恩義を貫いた結果、8月23日に勃発した会津戊辰戦争である。一か月籠城して戦った会津藩は、天皇の京都出発の二日後、9月22日に全面降伏した。
 それにしても、酒樽と砲弾では大きな違いである。
 260年余り続いた徳川政権の下、江戸は特別に発展し、町民たちは皆その恩恵を受けていた。錦絵の中、新しい権力者から下された酒に酔って安穏とした江戸っ子の顔、顔、顔を見ていると、「江戸っ子なんて、たいしたことおまへんなぁ」という声が、西の方から聞こえてくるようだ。

 一般に、「遷都」すなわち首都が京都から東京へ移ったのは、明治元年と考えられている。なお当時、首都とは天皇御所の在る都市と定義されていた。
 東京府史・行政編第一巻(昭和10年1月発行)の『遷都の詔書渙発』の項に、『明治元年七月に至って、朝議は江戸をもって東京とするに決し、同月十七日東京巡幸の詔書が下った』と記されている。この詔書をもって東京へ遷都されたということなのか―。
 しかし、その年の12月に天皇が京都へ向かった際、新政府は『天皇は環幸(かんこう)された』と発表した。「環幸」とは天皇が出先から御所へ戻る時に使われる言葉である。つまりこの時、新政府は東京を首都と認めていなかったのだ。
 「東京が公式に首都とされたのはいつなのか」という命題へのこたえは諸説あり、断定するのは難しいが、明治元年でないことだけは確かなようだ。
 
 明治5年(1872)、天皇は、第一回全国巡幸として、近畿、中国、九州地方へ向かう。
 公文書に『5月23日に品川沖を出発、伊勢神宮へ参拝の後、西国地域を、視察、行幸した(略)帰途は、7月10日に海路、神戸を発し、12日に横浜へ上陸、汽車により品川に到着、皇居環幸となった』とあり、ここに初めて、東京を起点として「行幸」と「環幸」が正式に記された。
 この公文書に拠って、政府は公式に東京を首都としたとする説が有力である。そうであれば、令和4年(2022)、東京は遷都150年という記念の年を迎えることになる。
(鈴木 晋)



明治天皇が入城の江戸城・西の丸大手門(現、皇居正門)

 
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