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ザ・戊辰研マガジン

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怨讐を超えて佐土原藩士の墓の土を届ける

2020年11月06日 14:14 by norippe

 戊辰戦争研究会で史跡を歩いてみると、官軍を弔った官軍墓地が各地にあることに驚きます。私の住む福島県にも会津や白河、そしていわき市にも多くに官軍墓地があります。
 知らない土地で無念にも散った若者の命、たとえ形は違っても生まれ育った地で静かに眠りたいという思いは誰しも同じだと思います。
 そんな思いを抱き、いわき市泉町、郷土史家水沢松次さんが戊辰の役で戦没した旧佐土原藩士の墓の土を114年ぶりに故郷へ届け、地元で大変な話題になったという、だいぶ昔の話ではありますがここで紹介します。


写真はイメージです

■怨讐を超えて 佐土原藩士の墓の土を届ける

 いわき市泉町、郷土史家水沢松次さんが戊辰の役で戦没した旧佐土原藩士の墓の土を114年ぶりに故郷へ届け、地元で大変な話題になった。

 いわき市の郷土史家の親切なはからいにより、明冶元年の戊辰(ぼしん)の役で戦死した旧佐土原藩士たちの墓の土が、百十四年ぶりにふるさとへ帰ることが出来た。このことは宮崎県佐土原町で話題となり、テレビ、新聞などでも大きく取りあげられた。当時の敵である官軍に対する怨讐(おんしゅう)を超えての温かな思いやりであった。
 佐土原町へ墓の土を届けたのは、いわき市泉町玉露字道上六六、水沢松次さん(六二)、八ルさん(六一)夫妻。佐土原町は宮崎市郊外、大分県境に近く、日豊本線で宮崎から三つ手前。人口は二万を超える、海と山に囲まれた静かなマチ。
 佐土原藩主島津忠寛は島津家の出身、三万石足らずの分藩である(水沢さんの話)。戊辰の
 役に参戦するため、佐土原藩は一番隊から五番隊までの四百七十七人の藩士を戦場へ送り出した。鳥羽・伏見、上野の彰義隊の戦い、平城攻略、会津が落城、その足で秋田県まで遠征し庄内藩と戦っている。平城を攻めたときは茨城県平潟港から上陸、勿来、植田、泉、渡辺、湯本を経て兵を進めた。
 水沢さんが佐土原藩士のことを知ったのは、寺院跡を調査中の二年前の春彼岸のこと。いわき市植田町光明寺跡で「酒匂(さこう)浅之進の墓」を見つけた。
 日向国佐土原藩、二十九歳とあった。ふるさとを遠く離れた地で眠っていることに心を痛め、遺族へ知らせようと五十五年四月、宮崎県庁へ知らせた。このことが現地の新聞で大きく取り上げられ、遺族の手がかりをつかむことができた。町や遺族から感謝や喜びの電話、手紙があり、確かな手ごたえがあった。
 こんなに喜んでもらえるなら、いっそ佐土原藩士の墓の土を届けてやろうと決心、県内はもちろん関東まで足を延ばした。そして二十五人の墓を確認、墓の土を収容することができた。いわき市内では酒匂浅之進をはじめ小名浜字蛭川南、地福院の壱岐栄蔵、常磐白鳥町勝丘の龍勝寺・牧野日六左衛門、児玉源次良の四人。壱岐は明冶元年七月十三日、平城搦(からめ)手ロで戦死した人で三十二歳の隊長。酒匂は六月二十八日新田坂で負傷、二十九日死亡した。このほか平の菩提院の過去帳に佐土原藩士二人の戒名が載っているが、これは白鳥・龍勝寺に葬ったのは首で、菩提院の方は胴体を押葬したのではないかと水沢さんは語っている。

子孫の手で埋葬 新墓標を建立
▽テレビや新聞が大きく報道…△
ドキュメント感激の3日間

【三月十六日】
▽午前十一時三十五分宮崎空港着。佐土原町郷土史家青山幹雄氏(六七)、子孫宮崎市酒匂英雄氏(六八)の出迎えを受ける
▽宮崎県庁文化課を訪問、二年前の子孫捜しについてお礼をのべる
▽佐土原町社教課長田代勉氏を訪問、あいさつ▽佐土原城跡見学
▽西都原町古墳群、宮崎県総合博物館、西都資料館見学
▽佐土原町営国民宿舎に宿泊
【十七日】
▽午前十時から佐土原町・護国神社境内の招魂塚前において、持参の土を同町遺族会長鵜川利幸氏に引き渡す。酒匂浅之進、大町五兵衛、植村善右エ門の子孫が判朋し参列しているので、それぞれ遺族へ引き渡す
▽土を招魂塚わきに遺族の手て埋め、「戊辰之役戦没佐土原藩士之霊」の墓標を建て神事を行った。参列者二十人
▽神事終了後に座談会。参加者は前教育長丸田寅雄、町史編さん委員青山斡雄、同湯川武美、宮崎県教委講師三島敏子(女流歌人)、同町公民館郷土史学級員、遺族関係など訓二十五人参加
▽同夜は佐土原町青山幹雄氏宅に宿泊
【十八日】
▽午前九時から佐土原町史跡見学、佐土原地区公民館訪問、佐土原古人形見学
▽開山六百五十年の佐土原町大光寺て国重文指定の古文書見学
▽佐土原島津家墓所を参拝
▽鹿児島県の親類に一泊
【二十日】
▽午後宮崎空港から羽田へ

故郷へ帰った25人の藩士
いわきに四人の墓

▽谷山藤之丞=北茨城市平潟町・海徳寺
▽酒匂浅之進=いわき市
▽壱岐栄蔵(三二)=同
▽牧野日六左衛門=同
▽児玉源次(二七)=同
▽伊集院貞之介(二八)=三春町・龍穏院
▽新納八郎次(二八)=白河市・長寿院
▽検本源太郎(三〇)=同
▽鶴田力之進(三三)=同
▽籾木勇太郎(二〇)=同
▽池田数之進(十七)=同
▽植村善右衛門(二九)=同
▽厚地熊太郎(一八)=同
▽瀬戸口権太郎(二一)=同
▽立山源太郎(二一)=同
▽大町五兵衛(二〇)=同
▽佐藤平左衛門(二一)=同
▽間世田助市(三一)=同
▽原友次郎(一八)=同
▽谷山弥平次(二七)=同
▽児玉直蔵(二一)=同
▽工藤和田右衛門(二三)=同
▽三雲為一郎(三〇)=会津・長寿院
▽郡司伊蔵(一六)=同
▽谷山次郎(三九)=同

犠牲多い小藩
いつも苦しい戦いで?
次は秋田で収集

 水沢さんはいわき地方史研究会会員。日本化成を退職してからは好きな郷土史の研究を続け、今回の佐土原藩士酒匂浅之進の墓も、泉藩の寺院跡を調査中にみつけたもの。五十四年には「玉露の歴史」という本を出している。 こんどの調査で、秋田県にも佐土原藩士の墓があり、水沢さんが電話で連絡し確認した寺もあるのでいずれ足を延ばして墓の土を収集して、佐土原町の子孫へ届けてやりたいといっている。
 なお小藩だった佐土原藩士は、戦のたびに犠牲者を多く出しているが、これは大藩に比べ、割の悪い?作戦にかり出されていたためではないかという見方もある。
 水沢さんの話=佐土原町で大変喜ばれました。お互いに敵同士として戦った間納なのに、それを乗り越えてわざわざ戦没者の幕の土を届けてくれたことに対する感謝の気捲ちがよくわかりました。これからも、出来ることはしてあげたいと考えています。親類がたくさんできた思いです。

いわき抄

▼…平城をはじめ泉、湯長谷の城が焼けたのは明治元年の戊辰(ぼしん)の役である。官軍が平潟港(北茨城市)から上陸し、東北各藩の連合軍を猛攻、いわきを席巻したその足で会津若松城攻略へ転進した。あれから百十四年、長い年月のようであるが、ひいじいさんのころの出来事である。その際、官軍に加わって佐土原藩士がいわきで戦死されている。
いわき市泉町の水沢松次さんが藩士の墓をみつけ、故郷へ墓の土を帰してやろうと、わざわざ戦没者二十五人の墓を探しあて、宮崎県佐土原町へ届けた。
▼…佐土原藩主は島津・薩摩藩主の弟で三万石の小藩。平藩から国替えになった延岡藩内藤氏とは、目と鼻の近いところだ。いつの時代もそうだが、小藩は割の悪い戦を強いられたフシがある。薩長の雄藩の中間に入って行動したが、手薄なところを相手から攻め立てられ、孤立する場面もあった。戊辰の役で雄藩の下働きをさせられ、あるときは前衛隊として最前線ばかり担当させられるなど、分の悪い戦を強いられたのも同じケースである。

いわき民報(夕刊) 昭和57年4月8日(木曜日)

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