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磐城平城 本丸御殿跡の遺構か

2020年10月05日 23:42 by norippe

 いわき市の磐城平城本丸跡地で、江戸時代末期の戊辰戦争の戦禍に伴い焼失したとされていた本丸御殿跡と推測される遺構が見つかったことが市などへの取材で分かった。専門家によると、保存状態が良好なまま出土しており、全国でも珍しいケースという。市が公園整備に向けて同跡地で実施している発掘調査で発見された。約440平方メートルの範囲で建物の基礎になる礎石や、伊万里焼などが見つかったという。
 名古屋城や熊本城をはじめ全国で城跡調査・整備の委員を務め、城郭考古学の第一人者として知られる千田嘉博奈良大教授(57) は「これほど完全な状態で見つかったことは驚きだ。地域の宝であり、全国の城の歴史を考察する上でも大きな成果だ」と指摘した。



 市は公園整備事業で、地表から2メートルの深さで土壌改良を予定していたが計画を変更、30センチ程度の盛り土を施し遺構を保存する方針。国史跡に値するかどうか県や国に相談しており、今後、歴史的価値などが判明した場合は公園整備の計画変更も検討する。
 日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の北海道・東北地区連絡会幹事の菊地芳朗福島大教授(54)によると、多くの史跡は地表に建物が建てられるなどして壊されてしまうが、磐城平城跡は元々私有地で、建物が建つこともなかったため遺構がそのまま残っていた。菊地氏は「全国的にも少ない、状態が良いものだ。砲弾なども出土していて、戊辰戦争の跡も残している」と評価する。

 市文化振興課の担当者は「調査範囲を広げ、遺構について明らかにしていきたい。国史跡の指定については文化庁の意見も踏まえて対応したい」としている。
 市によると、礎石の位置関係から本丸御殿の広さや間取りなどを推測できる可能性があるという。本丸御殿に関する詳細な記録はこれまで確認されていない。

 磐城平城は、初代磐城平藩主の鳥居忠政が1603(慶長8)年に築城したとされている。天守閣などはなく、本丸御殿で藩主が生活しながら、家臣と会議などをしていたとされている。



磐城平城の歴史



◆白土城
 いわき市には戦国時代の山城である白土城があった。福島県の浜通り地方の南部を治めていた岩城氏の居城である。現在のいわき駅から東南東に2㎞、夏井川と新川が合流する地点にある標高95mの山の上にあった。戦国前期、岩城氏の勢力が拡大し、18代隆忠は四倉の長友館からこの白土城に本拠を移したという。
 岩城隆忠はここを本拠に嫡子である親隆と共に、勢力を持つ島倉山館の岩崎氏を攻め滅ぼし、北進して楢葉も制圧した。常隆の代の1483年(文明15)に居城を大館城に移した。
そしてこの城は家臣白土氏の城となった。


白土城のあった山

◆大館城
 飯野平城は主郭にあたる権現山の大館城を中心とした高月館、飯野八幡宮などの城館の総称(通称)である。近隣に飯野八幡宮があることが、その通称の由来。同城築城後、岩城氏は磐城地方一帯を制圧して勢力を広げ、西の白河結城氏や南の佐竹氏と争い、一時は常陸国に侵入して佐竹氏を服属させるほどの勢力を誇ったが、下野国の宇都宮氏を攻めて敗れたことをきっかけに退勢に向かい、相馬氏や田村氏との抗争が激しくなり、佐竹氏や蘆名氏、伊達氏の勢力が大きくなるにつれ衰退した。1590年(天正18)、岩城常隆は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣することで所領を安堵されたが、その直後に病死し、常陸の佐竹義重の三男岩城貞隆が跡を継いだ。貞隆は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは当初東軍に与していたが、兄の佐竹義宣に従って上杉景勝征伐に参加しなかったために改易となった。
 1602年(慶長7)岩城氏が追放され、代わって磐城平藩10万石に鳥居忠政が飯野平城に入城した。鳥居忠政は、徳川家康の家臣である鳥居元忠の嫡男。家康が伊達政宗の成敗に出向いた時、京都伏見城の留守を預かったのだが、石田光成の軍勢に攻め入られて命を落としてしまった。必死で城を守った元忠の死を悔やみ、息子の忠政に与えたお城がこの飯野平城であった。
 その後、大館城の東に12年の歳月をかけて新たな城(平城)を築き、同城に居城を移したことにより飯野平城は廃城となった。現在、主郭の大館城跡は公園として整備されている。


大館城本丸跡

◆磐城平城
 新たな城の磐城平城の場所は、もともと飯野八幡宮があった場所であるが、この飯野八幡宮を現在地の八幡小路に移設し、その跡地に磐城平城を建設した。都市名を戦国時代までの「飯野平」から、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に改めて磐城平藩を樹立したのである。
 天守は造られず、本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は、「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた。また、水戸を徳川頼房の本拠地にさせたのと同じく、磐城平を鳥居忠政の本拠地とさせた主な目的は、仙台を本拠地とする伊達政宗への牽制であった。
 鳥居忠政は磐城平を城を中心とした武家町・町人町・寺町に分けた都市に造り上げた。1604年(慶長9))に基礎が完成した。町人たちに防災のための手桶や梯子を用意させ、清掃の徹底・町木戸の使用を命じた。更に、十人組を作らせ、治安の責任の一端を持たせた。城下の人々の中で、特別な権利を持った商人の多くは、関ヶ原以前の岩城氏の家臣や、門閥商人出身者であった。紺屋町は当初は現在の八幡小路にあり、磐城平城が建築される際に現在地に移された。又、八幡小路には、安藤氏が藩主となった時期には藩校・施政堂が立地した。
 1868年(明治元年)の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に与した当時の磐城平藩家老・上坂助太夫は、磐城平攻防戦で新政府軍に敗れ、自ら城を焼き払って逃走、そして城は落城した。
 城には御三階櫓・隅図櫓・塗師櫓・八ッ棟櫓・追手門櫓・中門櫓・六間門櫓、茶室緑天庵などがあったが、現在残っているのは、石垣・土塁・水堀であり、一部は丹後沢公園として残っている。城跡の大半は、個人所有の住宅地として払い下げられており、石碑の立つ城跡への立ち入りはできない。

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