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ザ・戊辰研マガジン

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【幕末維新折々の記・十】北原雅長と鈴木丹下

2020年10月05日 23:43 by tange

 会津藩士・鈴木丹下は、文久3年(1863)8月18日に起きた「八月十八日の政変」の時、御所警備の任に就いていた。朝廷内で過激に攘夷を叫ぶ公卿一派と彼らを背後で操っていた長州藩を京都から追放するクーデターだった。丹下は、その日のことを克明に記した「騒擾日記」という文書を残している。
 私がその手記の存在を初めて知ったのは、今から45年ほど前のことだった。司馬遼太郎著「王城の護衛者」で新選組について、「会津藩重役鈴木丹下の『騒擾日記』に、この隊の幹部のことが書かれている」という記述を見つけたのだ。ただし「騒擾日記」は、独立した文書ではなく北原雅長著「七年史」にその全文が引用されてあったので、中々探し出せないでいた。25年ほど前、京都市歴史資料館で高祖父の手記に出会うことができた。

 北原は、明治37年(1904)に上梓した「七年史」で、京都守護職時代の会津藩が果たした事実を明らかにし、会津藩は朝敵でなかったことを天下に示そうとした。そのためには、自身が立ち会っていなかった「八月十八日の政変」で会津藩が孝明天皇を必死にお守りしたことを、「七年史」に掲載する必要があると考えた。そこで、現場にいた丹下に御所警備の様子を執筆するよう依頼する。
 しかし私は、ずっと不思議に思っていた。北原は、現場にいた千人を超える会津藩士の中から、どうして丹下を指名したのか。北原と丹下に何か接点があったのだろうか?

 丹下は、慶応4年(明治元、1868)8月29日、会津籠城戦でたった一回だけあった城外での組織的な戦い―長命寺の戦いにおいて銃弾に斃れた。従って「騒擾日記」は、それ以前に著されていたことになる。
 丹下の娘・光子が、明治元年から11年までに身の回りで起きたことを、回想記「光子」に書き残している。そこに、会津戦争勃発までの一家の住まいについての記述がある。
 『私の屋敷は元々本二ノ丁にありましたが、御殿様(松平容保)が京都守護職になられ、家中の侍を多数御抱えのため住宅が不足いたしましたから、父の京都在任中は屋敷を他へ譲り、一家は親戚へ同居しました。御殿様御帰国と同時に又同じ本二ノ丁の北原家の隠居所を借り受け、一時仮住まいをいたしておりました』
 容保は、慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れ大坂から江戸へ戻り、翌2月に会津若松へ帰国した。従って丹下一家は、同年2月以降、城下本二ノ丁の北原家屋敷内に住んでいたことが分かる。会津若松市立図書館蔵「戊辰若松城下明細図」では、本二ノ丁の二か所に北原家が存在する。仮住まいした北原家はどちらなのか、さらに調べた。
 やはり回想記「光子」に、8月23日の敵軍侵攻の朝、城中を目指して門外へ飛び出した時の記述がある。
 『御隣の同姓鈴木式部の御嬢様は、御屋敷を出た途端に流れ弾に当たって、敢え無くも伏倒れておられます』
 「戊辰若松城下明細図」に戻ると、鈴木式部の東隣が北原匡の屋敷となっている。つまり丹下一家は、慶応4年2月から8月まで同屋敷の隠居所を借りて住んでいたのだ。そこは西栄町一丁目の会津若松ザベリオ学園校舎の東南の角辺りである。

 北原雅長は、野口信一監修・執筆「詳解、会津若松城下絵図」に拠れば、やはり北原匡の屋敷に住んでいた。雅長は、家老・神保内蔵助の二男に生まれ、北原匡の養子となっている。
 閏4月を含め7ヶ月余り同じ屋敷に住んだ雅長と丹下は、年齢も近く意気投合し、「京都では命懸けで孝明天皇をお守りした会津藩は、決して朝敵ではない。政変の直後に孝明天皇が下賜された殿への感謝と信頼を寄せた宸翰と御製二首が、その証しとして残されている」などと話し合っていたのではないだろうか。
 そのような話し合いの流れの中で、文人雅長は「七年史」を構想し、丹下に「八月十八日の政変」当日の様子を文書にするよう依頼した。

 京都守護職・松平容保に下賜された孝明天皇の宸翰と御製二首は、明治政府の要路を占める旧長州藩士たちにとって、自分らの正当性を疑わしくさせる決定的なものだった。北原雅長は、明治37年に「七年史」を世に出し、それらの存在を公表した直後に不敬罪で拘留される。
 宮内庁書陵部・白石烈氏の最近の研究によると、明治天皇は、22年(1889)、この宸翰と御製をご覧になり筆写を命じた。さらに35年(1902)には、旧会津松平家の困窮に御手許金を下賜されている。いずれも守護職を務めた会津藩の正当性を認められてのことだった。
 そのような前提がありながらの北原雅長の逮捕拘留は、全く不当と言わざるを得ない。時の首相は桂太郎で、孝明天皇の宸翰と御製の公表に恐れおののく旧長州藩士の一人だった。
(鈴木 晋)



雅長も丹下も学んだ会津藩校日新館・大成殿(復元)


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