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ザ・戊辰研マガジン

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戊辰戦争から太平洋戦争、そして原発と戦う大熊町の歴史

2020年09月06日 22:11 by norippe

 東北磐城の戦いは平潟港上陸から始まった。磐城泉城、磐城湯長谷城を攻め落とした新政府軍は、次の目標である磐城平城へ向かった。
 磐城平城では三度の攻防戦があり、第一次攻防戦では新政府軍は岡山藩、佐土原藩、第二次攻防戦では薩摩藩、大村藩、そして第三次攻防戦では先の4藩に、鳥取藩、笠間藩の二藩が加わり、磐城平城を責め落としたのである。
 磐城平から新政府軍は相馬に向かう隊と三春へ向かう隊に分かれた。後から磐城に上陸した広島藩と鳥取藩700人が、浜通りを北上して相馬方面へ向かった。
 同盟軍は約10倍の兵力で、土地勘もある。双葉郡特有の断崖や河川も多く、新政府軍としては不利な状況であった。

 いわき市の隣に広野町がある。あのバトミントン、世界の桃田を輩出した「ふたば未来学園」のある町が広野町だ。
 新政府軍は、広野の南にある浅見川向かいに陣を張る同盟軍を発見。川を利用した陣地で新政府軍の進軍を拒んだ同盟軍だったが、夕方から明け方にいたるまで戦闘が続き、朝になって同盟軍が北への撤退を始めた。それを追って新政府軍は更に北上し、熊川へと向かう。現在の大熊町である。この大熊町、昔は相馬藩に属していた。

 大熊は浜街道の重要拠点でもあり、将兵が駐屯し大砲も配備されていた。大熊町では相馬藩の三隊長会、各藩の隊長の軍議が開かれ策を練ったのだが、同盟軍が手岡原に敗れると、応援に来ていた仙台兵は熊駅に火を放って浪江方面に退却した。同盟軍は退却するのみ、新政府軍は進軍するのみであった。

 その後、浪江の高瀬川で新政府軍は相馬藩と対峙し、広島藩は正面から、あとから合流した長州藩・津藩は側面から攻め入り相馬藩を討ち破ったのである。
 こうして浪江の戦いは新政府軍の勝利に終わり、相馬中村藩は降伏し、福島県浜通りの戦いは終結を迎えたのだ。



 浜通りにある双葉町と大熊町、この町をまたいだ広い台地は長者ヶ原と呼ばれていた。そこは太平洋の波が洗う約30メートルの絶壁の上、海に面した高台ゆえに水の便が悪くて耕作には適さず、ススキと潅木ばかりの広大な荒野であった。

 時代は明治・大正を過ぎ、昭和に入って15年が経った時、日本の世界に対する雲行きが怪しくなり、この長者ヶ原に飛行場が設置されることとなった。陸軍の軍事飛行場である。
 農家11戸は移転させられ、請負業者のほか町内外の青年団、消防団、学徒などが半ば強制的に工事に動員、翌年に飛行場が完成した。そして磐城飛行場と名付けられた。


磐城飛行場

 昭和16年12月、真珠湾攻撃を皮切りに、太平洋戦争は始まった。
 昭和17年春、宇都宮飛行学校磐城分校が発足し、50機ほどの練習機と1機の隊長機のゼロ戦が配置されてパイロットの養成が始まった。昭和20年2月には磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立し、学徒動員の学生を対象に「特攻」の訓練もするようになった。


赤とんぼと呼ばれる九五式一型練習機

 練習機は木製骨組み合板・羽布張りの主翼と、鋼管骨組みに羽布張りの胴体を持つ複座の複葉機で、脚支柱は直接胴体付。機体の色が橙色であったので、複葉機の形と相まって「赤トンボ」と愛称された機体である。磐城飛行場を基地にして海上の漁船を敵艦に見立てて特攻訓練を行った。ただ、艦載の迎撃戦闘機のスピ-ドが600km/h近いというのに、時速300km/hに満たない複葉機が爆弾を抱えて特攻するのだから、打ち落とされることは必然であった。
 しかし同年7月に軍は訓練を中止。空襲から練習機を守るため、近隣住民を動員して南西に6kmほど離れた富岡夜ノ森公園に機体を移動させた。桜並木の下に入れ、枝を切って機体に被せて隠したと言う。
 翌月にアメリカ海軍艦載機の攻撃が始まった。大熊の隣にある富岡駅は低空飛行による攻撃を受けた。また浪江町の常磐線の高瀬鉄橋も激しい攻撃を受け破壊された。この高瀬鉄橋は、戊辰戦争時、新政府軍と同盟軍が戦った高瀬川にかかる橋である。戦いの因縁は昭和になっても続いたのだ。

 アメリカの攻撃機は波状攻撃のごとく磐城飛行場を目掛け攻撃してきた。近くの住民は近くの洞窟に逃げるのが精いっぱいだった。そして磐城飛行場は壊滅され、飛行場の機能は停止し、そのまま終戦を向かえることとなった。


攻撃を受ける富岡駅



攻撃を受ける磐城飛行場

 磐城飛行場、戦後は米軍に接収されることもなく、仙台財務局の管理下に置かれた。
 飛行場跡地は地権者だった農家らに払い下げられたのだが、その1/3に当たる99万平方メートルは、西武グループの創始者・堤康次郎に3万円で払い下げられた。
 広大な飛行場跡を入手した堤康次郎は、昭和23年にここで製塩業を始めた。瀬戸内地方にあった塩田が戦時中に破壊されてしまい、当時、全国で塩が不足していたのだ。

 海岸に作られた人工の入江から鉄管で海水を汲み上げ、塩田にて濃縮。その後、パイプラインで長塚駅(現・双葉駅)にある製塩工場まで送っていた。そこで精製した塩は常磐線で東京まで運ばれ、全国に向けて販売されていた。

 しかし堤康次郎による製塩事業は長くは続かなかった。広大な塩田を不要としない低コストな製塩法が開発されたり、海外から安い塩が輸入されたりしたのだ。長者ヶ原の塩田は昭和34年に廃止され、一帯は再び荒野と化していった。
 そして広大な土地を持て余した堤は、衆議院議員でかつて福島県知事をしていた大竹作摩に相談を持ち掛けた。その時大竹は、堤が所有する長者ヶ原が、日本最初の原子力発電所の建設候補地のひとつであることを伝えた。(ちなみに、当時の東電社長・木川田一隆も大竹議員も福島県の出身で、旧知の仲であった)
 塩田敷地を投げ売りするつもりでいた堤は、当然のことながら心変わりした。

 原発建設地が長者ヶ原に正式決定すると、売却価格の吊り上げ工作に腐心し、昭和39年に3億円で売り渡す契約を結んだ。3万円で払い下げを受けてから15年後、無用となった荒地を1万倍の価格で転売することに成功したのである。

 昭和42年、原子力発電所が着工され、46年に運転営業が開始された。戊辰戦争、太平洋戦争を経験してきたこの長者ヶ原台地は、その後、未曾有の原発事故という更なる試練を受けることとなったのである。


東電展望台に立つ「磐城飛行場跡記念碑」


 最後に、余談ではあるが大熊町に伝わる戊辰戦争での広島藩兵の逸話があったので紹介しよう。大熊町の野上という場所での話である。

 相馬兵が守っていた野上には三軒の農家があり、その農家の一軒に「ナカ」という若いお嫁さんがいる家があった。
 慶応4年7月28日、ナカは誕生して間もない赤子の初五郎を遊ばせながらアンを作っていた。なべを下ろして仕事をしているうち、初五郎はアンの鍋に転んでしまった。
 子どもの泣き声にびっくりしたナカは急いで着物を脱がせて水で洗ってやったが、子どもの泣き声はやまなかった。
 この時、官軍が野上に来るという噂が伝わって来た。村の衆は荷物をまとめて後ろの山へ隠れることになった。ナカは夫の精助に言った。
 「オラナー、みんなに迷惑かけるからここにいる。官軍だって鬼でもあんめえ」
 「バカ、若い女がいてみろ、あの鬼たち何すっかわかんねえ。」
 「だめだめ、オラ―とこにゃ、アミダさまもござらっしゃる」とナカは動かず、一睡もしないで子どもの手当てをした。

 翌29日の朝、大和久の方に鉄砲の音が聞こえた。ナカは一心に念仏をとなえた。阿弥陀さまが守って下さるに違いない。
 そのうち兵士達は家の後ろの道をドタドタと通った。そして2・3人が井戸で水を飲んだ。1人がナカに気づいて声をかけた。
 「オイ女、なぜ逃げぬ。」
 「子どもが大やけどして泣くんで。」
 「お前偉いナ、子ども看るために残ったのか。」
 「ハイ」
  仏壇を見てその兵士は言った。
 「お前の家は一向宗(浄土真宗)か。俺もそうだ。久しぶりだ。拝ませてくれ。」
 彼はよごれた両手を合わせて念仏をくりかえした。
 「もう兵隊も行った。心配するな。俺も遅れると隊長に叱られる。子どもを大事にしてあげな。戦争が終わったら俺も広島に帰る。では元気でな。」
 ナカは涙が出て止まらなかった。これが鬼の官軍だろうか。いや阿弥陀さまの身代わりではなかろうか。ナカは後で知った。安芸門徒といって広島の人は非常に信心深いということを』
(大熊町公民館発行「民話・野がみの里」より)

 浪江の高瀬川で新政府軍と相馬藩の戦いがあったわけだが、その時に正面から切り込みに入った広島藩兵のうち3名が討ち死にしている。この中に先ほどのナカの家の仏壇に手を合わせた兵が入っていたかどうかは定かでない。


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