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十津川郷士①(田中光顕と田中主馬蔵)大和の歴史

2020年09月01日 17:48 by tama1

十津川郷士①(田中光顕と田中主馬蔵) テーマ:大和の歴史

 前回の投稿に十津川村上湯川大桧曽にある田中光顕の歌碑を訪ねてを書きました。 今回から、幕末における若き十津川郷士の活動!特に「禁裏御守衛」拝領に奔走した 十津川郷士の総帥・リーダ-の上平主税から紹介するのが、順序と言うべきなのですが、 田中主馬蔵の義兄千葉慶次郎宅に移った田中光顕や片岡源馬と改名した那須盛馬の その後も気になるところでもあり、この二人に加えて、順序は逆になるが、田中主馬蔵に ついて先に書いておきたいと思います。

  尚、このシリ-ズの参考文献は、一貫して吉見良三著「十津川草莽記」及び元十津川村 教育長勝山毅著「十津川人物史」から抜粋していきたいと思います。

 さて、再度十津川に逃れてきた片岡源馬(那須盛馬)は折立の文武館に潜居しつつ、近く の温泉地に通って湯治、傷を癒した。慶応元年(1867)五月にはさしもの深傷も全治し た。一方、紀州・上山路村の千葉慶次郎方に隠れていた田中顕助(光顕は維新後の名) は、慶次郎の二人の息子に孝経の素読などを教えながら時を待っていたが、四月下旬に なって、京の同志中岡慎太郎から帰郷を促す書信が届いたといいます。

  倒幕のためには、どうしても薩・長の二大藩の合力が必要である。両藩は八・一八政変 以来、仇敵の仲だが、これを仲直りさせ、相提携して倒幕に起ちあがらせたいため、仲間 の土方楠左衛門(久元)と相談し、両藩に説得に赴くことにしたから、早く帰郷して手伝 えということだったらしいです。

  蟄居中の岩倉具視とも相談して仲介工作に乗り出すことにした中岡らは、両者を説得でき る者は、土佐人しかいないと、大変な意気込みで、十津川潜伏中の田中らをも呼び出した と書かれています。

  田中と片岡はさっそく、同年七月、京へ帰り、薩摩邸に中岡慎太郎を訪ねたが、中岡は すでに五月二十四日薩摩へ発っており、同輩の土方も、長州へ発ったあとだった。 そこで、田中らはすぐ彼らを追って長州へ走り、八月初旬、馬関へ入って土方らと合流 したと、田中顕助は自身の履歴で語っています。

  彼の有名な「薩長同盟」は周知のように中岡と盟友の坂本龍馬が協力して両藩を口説き 八ケ月後の慶応二年一月、ようやく両者を握手させることに成功、この密約が倒幕の原動 力になったわけですが、この間の説得工作は非常な難作業だったようです。

  薩摩はともかく、長州藩は八・一八政変以来、薩摩藩にはさんざん痛い目に遭わされて きただけに対薩感情は険悪を極め、これを鎮めるのは容易なことではなかったようです。 そこで、龍馬と中岡がとった作戦は、第二次長州征伐に対し、武備充実を急ぐ長州藩に、 薩摩名義で軍艦や銃砲を買う便宜を与えるなど、搦手から融和を図って対薩憎悪をやわ らげる一方、土佐の同志の中で弁の立つ者や機知に富む者を選んで長州に送り込み、 高杉晋作、桂小五郎ら首脳をはじめ、反薩感情の強い奇兵隊士らを説得しています。

  田中顕助や片岡源馬も、この要員として十津川から駆り出されたわけで、二人とも長州に 入って中岡のもと、奇兵隊や忠勇隊(天誅組生き残りもこの隊に多く参加している)など 諸隊に入り込み、隊士らの認識を改めさせることに全力を尽くしています。

  特に田中は、めざましい働きをしているようです。人を口説き、その気にさせることにか けては、天賦の才能を持っていたといいます。これは光顕と名乗るようになった後半生 に、特によく現れており、龍馬も中岡も田中のそういう才を買い、重用したとあります。

  田中が馬関で活動を始めてまもなく、薩摩の密使黒田了介が山口にやってきます。 彼は西郷の意を受け、奇兵隊などの強硬派に薩摩の真意を伝え、和親を促進するために きたものだが、龍馬はすぐ、土佐の同志の中から池内蔵太、田中顕助の二人を選んで介添 えにつけ黒田を助けさせています。黒田はおおいに働いて桂や高杉ら首脳の心証をやわ らげ、桂に京へ出て西郷と薩長連合の盟約を結ぶ決心をさせていますが、その陰に田中 顕助の補佐があったことを知る人は少ないと思います。

  田中は両藩の第一回交渉の場に立ち会っていたことが記録に残っているそうですが、これ は彼が龍馬や中岡だけでなく、他藩の桂や西郷からも信頼されていたことを示す、よい 証拠になると言われています。 この後、田中は、中岡の土佐陸援隊創設に参画、さらにその陸援隊を率い、十津川郷士 と合同して高野山で挙兵するなど、持って生まれた弁才を精一杯活かして維新の激流を 渡っています。まさに、歴史の生き証人と言われる所以ですね。

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