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ザ・戊辰研マガジン

2020年07月号 vol.33

『攬勝亭見学会』と文化庁調査結果

2020年06月28日 19:50 by tetsuo-kanome
2020年06月28日 19:50 by tetsuo-kanome

 会津若松市教育委員会文化課企画の『攬勝亭見学会』が6/7(日)開催されました。

 

その模様は6/8の福島民報新聞に掲載されました。

 会津若松市教育委員会文化課には、243人の応募があったそうですが、見学できたのは100人。半数以上が落選でした。「攬勝亭を守る会」の方々も次々と落選だったそうです。

 見学会当日の会津若松市は、快晴で日差しは強かったですが、湿度も低く爽やかな見学会日和となりました。申し分ない天候に恵まれ、見学された皆様にも、心地よい一日となったことはとても良かったです。市教委文化課も新型コロナ対策で体温測定その他、一日中立ちっぱなしの方もあったようでご苦労様でした。外から見た様子では、内覧会の時よりも一層綺麗になっていたようです。もりの案内人さんのご苦労のたまものですが、少し手を入れると、見違えるように綺麗になるのがお庭ですね。 逆光で上手く写りませんでしたが、外から見ても、新緑の時から赤い野村モミジとイロハモミジの黄緑色の対比が美しい攬勝亭でした。

 「攬勝亭を守る会」の谷ヶ城副会長が「見学会」の抽選に当選され参加されました。「攬勝亭を守る会」のFacebookに当日の写真が掲載されておりましたので紹介します。

九華堂東三の句碑がとてもはっきり写っています。享保時代の物なので、肉眼では読み取りにくくなっておりますが、はっきり読めます。

 容保公の歌碑は内覧会の時は倒れたままでしたが、半分起こされて見やすくなっていたようです。

 会津若松市の職員が前に立っているのが、「菅神併庭記」です。意外と小さいのですが、攬勝亭の歴史がびっしりと書かれています。

 庭の奥、築山の中に祀られている神様。稲荷社だと思われます。

 

【攬勝亭の入口】の入口】

【「攬勝亭を守る会」のチラシ】

【福島の地元新聞記事】

【「攬勝亭を守る会」三回目の保存署名を会津若松市長へ手渡した記事】

 6月2日の要望書提出の記事が載りました。 市長さんも丁重に受け取っては下さったのですが・・・。 1,589名分の署名を提出。累計の署名は、2,934名になりました。

  「攬勝亭を守る会」は、会津若松市議会議員を通じて、再度の『攬勝亭見学会』の開催をお願いしたそうですが、市役所文化課からは「積水ハウス不動産にこれ以上依頼するのはちょっと」と言う回答だったそうです。

 その後、6月12日付けで、会津若松市役所秘書広聴課から要望書の回答が公文書として届いたそうです。市議会議員を通じてお願いしていた見学会を開くそうです。これだけは、聞き届けていただけたようです。なお、前回の要望書回答の際の面談でお願いしておりました望ましい形での保存と言うj回答が頂けなかった事と、要望の第二項、「専門家による精査」に対する回答が依然として欠けていることがありますので、攬勝亭を守る会としましては、回答は不十分であるとして改めて『欖勝亭を守る会』は、要望を続けていくそうです。

 また、その後、状況は好転しており、6/23に文化庁調査官1名による攬勝亭現状把握調査が行われる予定です。福島県教育庁文化財課からも2名の方も調査に同行されるとのことです。攬勝亭の保存活用と精査を会津若松市長に求める要望書署名数も既に3千名を超えたそうです。国の文化庁や福島県教育庁が調査することは、一途の望みがでてきた証かもしれません。

 そして、6/23に、文化庁文化財第二課の調査官による現地視察が行われました。明治以降については、写真資料などが残されており、現状との整合性がある程度確認できるが、残念ながら近世(江戸期)の様子がどれだけ残存しているかは、比較する資料がほぼ皆無であり、把握できないのが現状である。ただし、近世に、現在の場所にお庭が存在したことは間違いないといったご所見でした。視察後、記者会見があり、突っ込んだ質問もありましたが、調査官としては、あくまでも、ものとしての庭の価値という観点からの判断しかできないこと、歴史的意味は承知しているが、それは市として対応すべき事項とのご返答でした。なお、NHKが取材に来ており、当日のNHK総合テレビの福島ローカル放送の「はまなかあいづ」で放送されました。

 調査官を案内する文化課職員、記者会見の様子の写真です。

 6/23の文化庁調査官の現状確認を伝える各紙記事です。福島民報新聞、福島民友新聞、読売新聞、河北新報の順です。

 四紙ともに見出しはオットトトという感じですが、中をよく読むと 文化財として無価値なのではなく、資料に乏しく文化財指定に必要な改修履歴が掴めないという、国レベルの指定の場合の話ですね。 調査官はまた、「会津にとって様々な意義のある庭」とか「庭の歴史的意義は認めた上で」と仰っていることも重要です。 

  ここで、Facebookに投稿されました喜多方市の大和川酒造の社長のコメントを紹介します。

 会津若松の市民が本気で考えなければならないですね。とても大事な庭園です。御薬園・可月亭・そしてこの「攬勝亭」。会津三庭園の一つに数えられ、会津藩主にも愛されたという会津若松市柳原町の日本庭園「攬勝亭(らんしょうてい)」が宅地として開発される見通しとなっていることが分かりました。造成されれば、庭園の形状が失われることになる。専門家は「文化財的な価値があり、会津の築庭史研究にとっても重要な庭園。残念としかいいようがない」と肩を落とす。  攬勝亭は、江戸時代に藩士の身分を持つ豪商だった長尾氏の邸宅内にあった庭園で、会津藩初代藩主の保科正之によって命名されたという。後に江戸時代初期の代表的な作庭家・小堀遠州の流れをくむ目黒浄定によって修景されたと伝わる。長尾氏の邸宅は戊辰戦争で焼失したが、庭園は残され、歌人の与謝野晶子など著名人も訪れた。  近年は手入れが行き届かず、草が生い茂る状態となっていたが、茶室とされる建物や、庭園を訪れた会津藩主松平容保(かたもり)の歌碑などが残されている。  ともに会津三庭園と称される御薬園(同市花春町)は国指定名勝、可月亭(同市材木町)は敷地内の建物が国の登録有形文化財となっているが、攬勝亭は未指定だった。関係者によると、市教委が文化財としての価値を確定するため調査しようとしたが、当時の所有者と調整が付かず断念したという。  攬勝亭の敷地は、仙台市の不動産会社が購入。会津若松市は、同社からの開発許可申請を昨年12月に許可した。市教委は「開発を止める法的な根拠がない。できるだけ図面や写真で記録する方向を探りたい」とする。同社は取材に、宅地造成を進める考えを示した。  県文化財保護指導委員の長尾修さん(71)=同市=は「文化財指定の網を掛けることができなかったことが悔やまれる。市内には未指定で文化財としての価値が高いものが多くあり、取り組みが必要だ」と指摘した。会津若松市民が本気で保存に向けて行動して頂きたいものです。

 この方のご指摘はごもっともです。『攬勝亭』を本気で保存して頂くには、残念ながら、署名活動だけでは難しいと思います。会津若松市が本気で、積水ハウス不動産に『攬勝亭の敷地』を買い取りの意向を伝えたうえで、会津若松市にて買い取り費用を予算化し、積水ハウス不動産から土地を買い取ることがまず大きな第一歩です。その後、『攬勝亭』までの付近の道路を整備して駐車場を設置する等莫大な費用を要すると思います。もちろん、荒れ放題の『攬勝亭』そのものを、綺麗に整備する必要があり、この費用もかなり莫大な額になると思われます。これらの総費用を会津若松市にてしっかり予算化して頂くしかありません。会津若松市民が本気になり会津選出の政治家の皆さん、菅家一郎復興副大臣や小熊衆議院議員等にアプローチして頂き、国に貴重な文化財と認めてもらい、『欖勝亭』を保存することについて、国を動かすのも一つの手かもしれません。いずれにしても、あらゆる手を使って、『攬勝亭』を会津三庭園として保存していくには、かなり、ハードルが高いかもしれませんが、皆さんの知恵を絞って何とか保存への道を探していくしかありません。

【記者 鹿目 哲生】

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