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ザ・戊辰研マガジン

2020年06月号 vol.32

いざ、桜田門へ

2020年06月06日 12:08 by norippe
2020年06月06日 12:08 by norippe

 皇居にある門の中でもひときわ話題とされる桜田門であるが、元々この門は小田原街道の始点として「小田原口」と呼ばれていた。関東大震災で一部が破損し改修された為、江戸時代とは少し形が変わっている。昭和36年に国の重要文化財に指定された。
 この桜田門外に計画を練って集まった水戸の浪士達、大老井伊直弼が登城するのを待ち受けそして日本史に残る最大のテロ事件が起きたのである。その水戸浪士達がどのような経路を辿って計画を実行したのかを探ってみた。

まず、水戸浪士達が桜田門に向かうにあたり、集まった場所は東海道品川宿の茶屋「稲葉屋」、そして4軒ほど離れた場所にある旅籠屋「相模屋」であった。茶屋「稲葉屋」を集合場所にきめたのは、薩摩藩士の有村雄助。 品川遊廓は増上寺の僧たちとともに三田の薩摩藩邸の者たちが上客であった。有村たちは茶屋稲葉屋に行き、そして近くにある品川宿随一の妓楼相模屋に上がるのが常で、稲葉屋の主人とも親しく、恰好の集合場所であった。
 「相模屋」は「土蔵相模」と呼ばれ土蔵のような造りの旅籠屋で、文久2年、品川御殿山のイギリス公使館焼き討ち事件で、高杉晋作や久坂玄瑞らの打ち合わせ場所もこの「相模屋」であったのだ。


相模屋

 「土蔵相模」の建物は昭和の戦災を乗り越えたが、昭和52年に取り壊されて今はその姿形はまったく残ってない。一階はファミリーマートが入るマンションになっていて、申し訳ない程度に「相模屋」だったことを知らせる案内板が立っているだけとなっている。


相模屋があった場所に立つ案内版

 万延元年(1860年)3月3日の早朝、浪士達は相模屋を出て目的地に向かった。次の待ち合わせ場所は増上寺先にある愛宕神社である。

 当日は折からの雪であった。途中、大木戸を過ぎ、札ノ辻を左に曲がり、網坂を登り中之橋を辿る道順であった。
 写真は会津藩下屋敷があったあたりである。


綱坂

 会津藩屋敷を抜けて網坂を登り、日向佐土原藩屋敷のところで左に曲がり、筑後久留米藩屋敷の角を右に曲がると神明坂である。そしてこの坂を降りると中之橋がある。


中之橋

 中之橋を過ぎ、増上寺を右手に見て、次の集合場所である愛宕神社に辿り着く。午前7時には18人全員がこの愛宕神社に集合したのである。愛宕神社の正面には男坂と言われる急な長い階段がある。そして、坂を登ると愛宕神社がある。神社の中に桜田烈士の碑が立っている。 18名はこの愛宕神社で成功を祈願し、いよいよ桜田門に向かったのである。


愛宕神社(よく見ると筆者の姿が映っている)


愛宕神社正面の脅威の階段(上から撮ってみました)


桜田烈士の碑

【井伊直弼襲撃に加わった者の名前と役割】

「総指揮者」
関鉄之介(水戸) 斬り合いには参加していない

「見届け役」
岡部三十郎(水戸) 斬り合いには参加していない

「襲撃役」
有村次左衛門(薩摩)
稲田重蔵(水戸)
山口辰之介(水戸)
鯉淵要人(水戸)
広岡子之次郎(水戸)
斎藤監物(水戸)
佐野竹之介(水戸)
黒沢忠三郎(水戸)
蓮田市五郎(水戸)
大関和七郎(水戸)
森五六郎(水戸)
杉山弥一郎(水戸)
森山繁之介(水戸)
広木松之介(水戸)
海後磋磯之介(水戸)
増子金八(水戸)

「伝達役」
佐藤鉄三郎

 桜田門の近くに到着した浪士達は、役目を果たす為みぞれ交じりの雪の中をそれぞれの位置に着き大老井伊直弼が桜田門を通過するのを待った。
 井伊直弼の屋敷は桜田門から直ぐ近くの濠沿いにあり、浪士達からも屋敷から出てくるところがみえる。屋敷の門が開き、雪の中を粛然と行列が進んでくる行列が見えた。供回りの徒士以上が二十数名、足軽以下四十名ほどであった。行列が濠沿いの道を進み、先供が道を祈れて桜田門の橋にむかいはじめた。
 その時、森五六郎が刀を抜き、近寄った徒士の体に振りおろされたと同時に短銃の発射音が一発とどろいた。そして濠端と松平大隅守の屋敷の塀ぎわに立っていた同志たちが、一斉に刀を抜き斬り込んだのだ。駕寵の周囲には徒士が三人ほどしかいず、半合羽を着た稲田重蔵が、刀を真っすぐにして、駕籠の扉に体あたりをした。そして有村次左衛門と広岡子之次郎が、濠の方から駕籠に走り寄り、刀を突き入れた。有村が勢いよく立ち上がり顔も着物も血で染っている。上方にかざした刀の先に、髪が顔をおおった首が突き刺さっていた。刀をかざして上下に動かした。浪士達は本懐を遂げたのである。

 襲撃を成功させた浪士たちはそれぞれ自訴するため目的の屋敷に向かった。大老井伊直弼の首をあげた有村次左衛門の傷は、後頭部から背にかけて長さ四寸深さ七分で、着物の背には一面に血がひろがっていた。かれは、歩行が困難であったが、井伊大老の首をかかえてよろめきながら和田倉門前を過ぎ、辰の口の若年寄遠藤但馬守(近江三上藩主)屋敷の門前にいたった。出血が激しく、有村は門前で腰を落し、大老の首をかたわらの石の上に置いた。そして、小刀を抜いて腹を切り、さらに咽喉を突いて突っ伏した。有村は死にきれず、遠巻きにしている者に介錯を求めたが、恐ろしがって近づく者はいない。そのうちに、遠藤但馬守屋敷から藩士が出てきて、「いずれの家中の方でござるか」と、問うた。有村は、「松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久の官職名)元家来」と答えただけで、声が続かない。但馬守屋敷の者は、有村の体を井伊の首とともに戸板へのせて辻番所に運び入れた。それから間もなく、有村は息絶えた。二十三歳であった。
 引揚げ途中で連れ立った斎藤、佐野、黒沢、蓮田は、月番老中内藤紀伊守のもとに自訴しようとするのだが、紀伊守屋敷は濠の内側にあるので、馬場先門に通じる橋に行った。しかし、桜田門外での変事があったことから、馬場先門は桜田門、和田倉門とともに閉ざされていたのだ。斎藤たちは、紀伊守屋敷へ行くことを断念し、田安家(家主田安産頼) の屋敷に自訴しようと考え、道を辿って行った。和田倉門の前に辿り着いたが体力は限界に来ていた。それ以上歩くことは出来ず、右手にある老中脇坂中務大輔(安宅・播州龍野藩主)に自訴することにし、その表門をくぐった。佐野竹之介は傷が深く、夕刻死亡。  大関、森、杉山、森山の四人は、細川越中守屋敷に自訴。濠沿いの道を北へ歩き、和田倉門を左に見て辰の口を右に通じる道を辿って、細川越中守(斉護・熊本藩主)屋敷に自訴した。
 山口辰之介と鯉淵要人は傷が深く、和田倉門まで達することが出来なかった。有村が遠藤但馬守屋敷前へ辿り着いた頃、山口辰之介と鯉淵要人は馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある増山河内守屋敷の角を右に曲がって歩いていた。共にひどい深傷を負っていた。山口は腹をえぐられ、鯉淵は肩先から乳のあたりまで深く斬りさげられていて、塀に手を付きながら道を辿って行った。 河内守屋敷の塀がきれ、織田兵部少輔の塀まで辿り着いたが、そこで歩く力も失せて膝を着いた。山口の手にした刀は、弓のようにまがっていた。山口の苦悶は激しく、鯉淵に、「介錯してくれ」と頼んだ。鯉淵は、体をふらつかせながら立ち、姿勢を正して山口の首を落した。再び膝をついた鯉淵は、すぐに刀で咽喉を突きとおし、絶命した。鯉淵は、襲撃した者の中では最も高齢の五十一歳、山口は二十九歳であった。
 大手門までたどり着いたのは広岡子之次郎ただ一人だった。探傷を負った広岡は、更に北へと歩き、大手門外の酒井雅楽頭(忠顕・姫路藩主)の屋敷外まで来て、歩くことが出来なくなって腰を落した。たまたま姫路藩士稲若新蔵が、屋敷の窓から娘に降雪を眺めさせていて、広岡の自害の様子を目撃し、それを手記として残している。それによると、広岡は雪の上に坐って双肌を脱ぎ、帯もゆるめて腹を露出させた。大刀を抜いて腹にあてたが、少し思案する様子で大きな石に腰かけ、刃先を咽喉に突き立てた。刀は一尺五寸も突きとおり、引き抜くと再び突き刺し広岡子之次郎は自害したのである。


【参考文献】 ・桜田門外ノ変 上・下:吉村昭、新潮文庫 

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