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ザ・戊辰研マガジン

2020年06月号 vol.32

覚馬の口述した管見を筆記した男「野沢鶏一」

2020年06月05日 23:13 by norippe

 山本覚馬が京都で捕らえられ、薩摩藩邸に幽閉された時、一緒に幽閉された野沢鶏一の写真が見つかった。目が見えない覚馬に代わって管見の口述筆記をしたのがこの野沢鶏一である。


福島民報新聞に掲載された晩年の野沢鷄一(右)

 「野沢鶏一」は、薩摩藩に師である山本覚馬とともに幽閉された時、17歳であったが、覚馬の口述筆記を行い、一句ずつ書きとめ、読み聞かせて訂正させ、一ヶ月かけて建白書(管見)を完成させ、新政府宛へ提出した。これを読んだ西郷隆盛や岩倉具視等は、その内容に敬服し、覚馬の口述書(管見)を書き綴ったという。
 鶏一は、戊辰戦争後、大赦により覚馬とともに釈放された。前掲の略年譜を見れば明らかであるが、「鶏一」は師「覚馬」の教えである「見聞」を良く学び、各方面で活躍する大人物に成長する。覚馬は、釈放後、その「管見」で述べた知識が認められ、新政府にも重視されて京都府大参事(副知事相当職)に請われて京都府の顧問となり、京都府の新しい施政に貢献することとなる。また明治8年には、新島襄及びデ-ビス博士とともに同志社を創設し、襄の没後は同志社の総長にもなった。また、京都府の初代府議会議長を務めた。野口鶏一も覚馬の弟子の一人として同志社大学の支援や交流にも尽力したという。

 幼いころより学問に秀で、1867(慶応3)年、故郷の会津野澤から京都に出て山本覚馬の会津藩洋学所に学ぶ。翌年1月の鳥羽伏見の戦いの際、洋学所を襲った新政府軍に抗い、しばらく投獄される。
 その後、大坂開成所、神奈川県立英学校・脩文館に学び(このとき星亨に師事)、1873(明治5)年より大蔵省租税寮に出仕した星の推挙もあって同じ租税寮に出仕。1878(明治11)年に代言人の免許を取得し、1889(明治22)年にはアメリカに渡ってエール大学に学んだ。
 1892(明治25)年の第2回総選挙から3回連続で立候補するもいずれも次点で落選。この間に国会議員に当選した星と行動を共にし、星の朝鮮政府法律顧問就任とともに朝鮮に渡り、朝鮮での法制度の整備に尽力する。その後、神戸地方裁判所勤務などを経て、公証人となり、その一方で「星亨伝記資料」の編纂などに当たった。

【生没】1852(嘉永5)-1932(昭和7)
【出身】陸奥国
【実父】斎藤兵右衛門
【実母】梅(石川市郎右衛門女)
【別称】斎藤瑛斎

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