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ザ・戊辰研マガジン

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ある日の論争(薩長の侵攻軍をなんと呼んでいたか)

2020年05月31日 17:05 by date

 「ザ・戊辰研マガジン」のフエイスブックの表紙

 私が参加する戊辰戦争研究会のなかの「ザ、戊辰研マガジン」の編集者の中で次のような論争があった。
戊辰戦争時に会津藩や東北各藩は侵攻する賊軍をなんと呼んでいたか?。そういう問いがあって私は固まってしまった、普段から戊辰戦争を勉強している身でありながら即答はできなかった。
 「官軍か?」、「新政府軍か?」、、「西軍か?」、「薩長軍か?」、「官賊か?」、それとも「くそったれか?」、呼び名はいろいろあったのだろうがこれだっという呼び名が思いつかない。
 その時の論争を再現してできるだけ検証してみたい。

「官軍」
 確かに薩摩藩は鳥羽伏見の戦いで偽の錦旗を揚げて「朝廷軍」を装った、その偽の錦旗を持ち出して各藩を説き、最新の武器により侵攻軍に組み込んだ。そして薩摩藩に至っては孝明天皇から納められたご宸翰をちらつかせての行軍ではなかったのか。
 このご宸翰は会津藩の松平容保公にも下向されたが、松平容保公はそのご宸翰を披露することなく竹筒に納め肌身離さずに守っていたという。そのことを言えば会津藩も「官軍」であった。
だが、攻める薩摩・長州にとっては自分たちに都合のいいことを使い、世論を曲げてきたのだろう。
 だからこそ、会津・同盟軍は決して侵攻軍を「官軍」などとは言わないはずである。

「新政府軍」
 新政府が出来たのは戦闘のさなかの9月である、9月より元号は「慶應」から「明治」に変わった、しかし列藩同盟が発足したのは5月である、そしてその奥羽越列藩同盟は軍事同盟であったが政治的にも新政府の機能を持つものであった、事実、列藩同盟は輪王寺宮を東武皇帝として祀り新政府とした、そして新潟港から世界各国に発布した。その時代には日本国には二つの政府が存立していたことになる。列藩同盟も政府であることから侵攻軍を「新政府軍」とは言わないはずである。

「西軍」
 日本国を二分した戊辰戦争である、薩摩や長州は江戸や東北からの位置を見れば西方であることから「西軍」との呼び方がある。
しかし西の国であっても小倉藩などは長州と戦っていたし松山藩なども戦っていた、そして「東軍」の中でも久保田藩(秋田)や三春藩や新発田藩・村松藩などは西軍に呼応して列藩同盟を相手に戦ったわけであるから、西軍・東軍という棲み分けでは説明しきれないだろう。
 そして私は言いたい、「西軍」「東軍」という分け方をするならば当然に「北軍」や「南軍」という範疇があってもいいわけだ、東軍、西軍、北軍、南軍、この東西南北がそろってこそ戦いは成立するのではないだろうか、東西南北・・・、決して麻雀の話ではない。

「官賊」
 この言い方は、侵攻され殺され盗まれ犯され焼かれた東北からみた言い方である、官の名を名乗った賊軍である。
一般的にこの言い方はない、侵攻した軍に対する悪意を持った言葉であり、戊辰戦争研究会の会員の中でも使うのはごく一部である。

 こういった論争が続いたところである知恵者が締めてくれた、ならば星亮一先生に聞いてみましょう。

 そして結果は「薩長軍」だろうということであった。

(一部に不適切な表現がありますが、時代背景を配慮し著者の思いを大切にしたいがためにそのまま表記しました)

記者 伊藤 剛

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