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【幕末維新折々の記・三】明石藩舞子台場(舞子砲台)

2020年03月06日 20:54 by tange

 元治元年(1864)11月、京都守護職の任にあった会津藩主・松平容保は、その年の7月の禁門の変(蛤御門の変)で朝敵とされた長州藩の征伐に参加した諸藩兵への慰労の使者として、藩士の小野権之丞、柴太一郎らに広島出張を命じた(菊池明編『京都守護職日誌・第二巻』)。
 小野は、11月15日、京都を出て藩の大坂蔵屋敷に到着する。翌々日の昼前に新選組の近藤勇、土方歳三と酒を酌み交わしながら暫く談合した。そして午後3時頃、西へ旅立った(『小野権之丞日記』)。
 曾祖母・鈴木光子の母方の祖父・小野権之丞の足跡を求めて、大阪から明石まで旅をした。

 会津藩は、京都守護職を拝命した際、幕府より近畿の地に領地が与えられ、そこからの収入を京都における莫大な運営経費の一部に充てた。収穫米を換金するために必要な蔵屋敷を、経済の中心地大坂に置いていた。会津藩の大坂蔵屋敷は、堂島川に架かる田蓑橋の北詰で、NTTテレパークの地にあったと推定されている。
 堂島川が濃い緑の水面を見せてゆっくりと流れている。川に面したNTTテレパークの一隅に、大村藩大坂蔵屋敷の跡を示す石碑を見つけた。そこには、肥前大村藩が、寛保3年(1743)、ここに蔵屋敷を構えたと刻まれている。同藩は、幕末の120年ほども前から、諸国廻船による国内交易を盛んにおこなっていた。
 会津藩は大村藩蔵屋敷の一部を借りて大坂蔵屋敷にしたと推定されているのだが、それは本会会員で大阪在住の歴史家O女史の研究成果である。さらに研究が進み、この地に会津藩の史跡碑などが立てられようとする時は、ぜひ応援したいと思っている。
 
 藩の蔵屋敷を出立した小野は、その日記に拠ると、西之宮、生田神社、楠木正成公墓などに立ち寄りながら西へ進んでいる。楠木正成公墓は、江戸初期、水戸光圀によって建立されたが、明治5年(1872)に湊川神社が創建され、その一画に取り込まれた。
 小野は、11月19日、明石藩舞子台場(舞子砲台)を訪ねる。
 舞子台場は、この前年、当時軍艦奉行並だった勝海舟の指導の下に完成した。それは、淡路島の徳島藩松帆台場と向き合うように造られ、明石海峡の海防に寄与していた。
 小野は、竣工直後の舞子台場へ出張の趣旨を違えて立ち寄り、海防に資する施設を見学していたのだ。「海防の会津藩」を担う藩士として、面目躍如といったところか……。

 舞子台場跡(舞子砲台跡)は、現在、東西幅約70mで高さ6mの石垣を見せているだけだ。発掘調査の結果、護岸の赤茶色の石垣が当時のものであることや、台場の石組全体がここに埋もれていることが分かった。平成19年(2007)2月、国の史跡に指定された。
 現在、石垣を除いて構築物は一切無く、史跡を示す角柱の石碑だけが海峡を背に立っている。
 瀬戸内の海は穏やかに拡がっていた。そこを大小の船舶が行き交い、遙か上空に世界一の橋脚間距離を誇る明石海峡大橋が淡路島の先端に突き刺さるように架けられている。ちょうど正午、真下から見上げた橋は、南中した太陽の光を受け大空を二つに切り裂くようにシルエットとなり、その先端付近では、両側の海がきらきらと光っていた。
 
 11月20日、この地で柴太一郎らと落ち合った小野権之丞は、明石湊を出帆し、翌々日の22日、福山に着いた(『小野権之丞日記』)。
 なお、この柴太一郎の弟・五郎が、青森県の野田豁通大参事の屋敷に書生として住み込み、そこで小野権之丞の孫・光子と出会うのである。ただしその出会いは、この時から8年も先、会津藩が戊辰戦争に敗れ本州最北の地、斗南(現、むつ市)へ移封された後のことだった。

(鈴木 晋)


舞子砲台跡と明石海峡大橋

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