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山本覚馬の『管見』の原本が防衛省で発見!

2019年10月27日 18:32 by tetsuo-kanome

 驚きの発見です。今年9月、なんと「防衛省」で保管されている資料の中から、山本覚馬の『管見』の原本が発見されました。なぜ、防衛省で保管されていたのか?一番のミステリーです。  

 戊辰戦争研究会の山本覚馬こと関根さんにわざわざいわき市の図書館に行って頂き、この新聞記事をコピーして提供して頂きました。関根さん、台風19号の影響で断水の中、図書館に行ってコピーして頂き、本当に心から感謝申し上げます。

 

  大河ドラマ「八重の桜」の主人公、山本(新島)八重の兄で会津藩士の山本覚馬(かくま)が日本の将来を見据えて作成した建白書『管見(かんけん)』」が記された文献が、東京都の防衛省防衛研究所で保管されていたことが今年9月23日までにわかりました。『管見』は新政府、または薩摩藩に提出されたとの通説でしたが、直接的に裏付ける資料が見つかってお店りませんでした。研究者は「政府の中枢まで、覚馬の意見が届いていたことが確かめられる貴重な資料」と話しております。『管見』は、1868(慶応4)年の鳥羽伏見の戦いの後、目を患っていた覚馬が幽閉されていた薩摩藩邸で、口述筆記させたとされる建白書。三権分立、代議員制、女子教育の充実など近代国家のあるべき姿を先取りしておりました。覚馬を研究する同志社社史資料センター(京都市)の小枝弘和社史資料調査員は「日本の近代化に向けた意見を、有名な坂本龍馬の船中八策よりも具体的にまとめている」と評価しております。小枝調査員によると、『管見』には徴兵制など兵役に関する提言もあり、「防衛研究所に保存されていたことは驚きだが、違和感はない」と語っております。同研究所で『管見』を見つけたのは、幕末史家の伊藤哲也さん(50)=さいたま市。今年1月、白虎隊士に関連する資料を探していた伊藤さんが、「諸建白記」と表紙に書かれた冊子の中から偶然見つけました。「諸建白記」には1868年3月から9月までに政府に寄せられた軍務関係の提言書がそのままとじ込まれており、『管見』は、ほかの人物が提出した文書と一緒にまとめられていたそうです。伊藤さんは「管見は政府関係者と覚馬との接点をつくり、その後の活躍の原点となる文書。これがきっかけとなり、覚馬の業績にさらに光が当たってほしい」と話す。研究者も熱いまなざしを送っております。「新島八重 愛と闘いの生涯」の著者、吉海直人同志社女子大特別任用教授は「見つかった文献が防衛研究所に収められるまでの経緯が解明されてほしい。写本との比較研究が進むことで、『管見』の正しい内容が明確になる」と期待しております。

 それにしても、山本覚馬の『管見』の原本は、現在までの150年以上発見されなかったことと、なぜ「防衛省」に保管されていたか、真実が知りたいですネ。

 

 また、2016年6月18日には、宮内庁宮内公文書館から『維新階梯(かいてい)雑誌』を伊藤哲也氏が発見しました。『維新階梯雑誌』は、会津藩主松平容保が京都守護職になった1862年以降の出来事を明治時代に編さんされました。一部が引用されるなどして存在は知られておりましたが、31冊が同館にそろっているのを伊藤哲也氏が確認しました。幕末の京都で、長州や土佐などの過激派志士が襲撃された「池田屋事件」の際、2階に踏み込んだ新選組局長の近藤勇が発した第一声は、将軍や主君の意思であることを示す「御上意」だった可能性があることもわかりました。新選組のドラマなどでは「手向かいすれば容赦なく斬る」と警告する場面が多いですが、今回の資料にこの言葉はなかったそうです。これまで知られていなかった新たな言葉の登場は、歴史ファンの関心を呼びそうです。 資料は「維新 64年の池田屋の場面では、近藤が亭主とやりとりした後、2階に上がると6、7人が車座になっていたと記述。「座中を割って奥へ赴けば、一同(刀を)抜いて斬り掛かってきた」「此の方御上意と大音声で(叫んで)踏み込んだ」と続く。後に近藤が「(相手は)御上意に恐れをなした様子。いまだ徳川のご威光は尽きず」と述懐したとも書かれている。これまでは、1階にいた幹部隊士で、大正まで生きた永倉新八の回顧録から、近藤はまず「手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨てる」と警告したとされてきた。 新選組はこのころまだ目立った功績がなく、近藤は攘夷を実行しない幕府に失望し、解散の意向を伝えるなど進退に悩んでいた。しかし事件後、幕府を支える傾向を強めていったとされる。 新選組研究の第一人者として知られる菊地明さんは「上意という言葉は初めて知った。『手向かい致せば』も言っていたとしても矛盾はしないと思う。予想外に相手がひるんだので将軍の威光を見直し、あくまで徳川が力を持つことで攘夷を目指す思想につながったのかもしれない。膨大な資料は大きな価値がある」としている。「維新階梯雑誌」が31冊も残っていたのは意義深い(所蔵者は宮内庁宮内公文書館)。同史料は明治以後に会津松平家が編纂した記録で、大日本維新史料稿本(東京大学史料編纂所蔵)にも多く収録されているそうですが、部分の引用でしかなかったそうです。東京大学史料編纂所にもまとまったものは1冊しか所蔵していなかった(池田屋事件の部分は含まれていない)。会津の京都守護職時代の研究に役立つことまちがいありません。

  このニュースも、またまたミステリーです。『維新階梯雑誌』は、なんとなんと宮内庁で保管されていたってことが不思議ですし、まさにミステリアスです。この二つの事実から、会津藩関連の真実の書物がまだまだ政府機関に保管されていて日の目を見ていないものがたくさんあるかもしれません。いずれにしても、会津藩の本当の真実が明々白々になる日を期待したいと思います。

【記者 鹿目 哲生】 

 

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