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【先祖たちの戊辰戦争・十】米沢、白石、仙台

2019年10月06日 23:37 by tange

 高祖父・鈴木丹下の岳父・小野権之丞の足跡を追って、米沢、白石、仙台を旅した。
 慶応4年(明治元、1868)、丹下の訪問から五ヶ月後、小野は同じ米沢城を訪れていた。同年5月15日の上野戦争に敗れ、東北へ逃れた東叡山寛永寺貫主・輪王寺宮のお供をしてであった。
 6月18日、小野は宮に従い会津若松から米沢に向かった。20日に米沢城に着く。
 小野は、宮を奥羽越列藩同盟の盟主として奉じ、同盟諸藩の結束を確かにし、新政府軍に拮抗する勢力を東北・北陸に樹立しようと図ったのである。それが、東国での戦争を避け、会津の無事を果たす唯一の道と考えた。ただ、それは小野独自の発想ではなかった。
 徳川家康は、江戸に幕府を開いた時、将来西方の外様雄藩が京都の天皇を担ぎ江戸に攻めて来ることを予見していた。家康は、現実となった幕末維新の流れを、260年余り前に見据えていたのである。
 そのような場合に徳川家が外様雄藩と闘って朝敵となることを避けるため、江戸に親王を置き、いざという時に東方の天皇にするということを構想していた。
 三代将軍家光の時、それが具体化する。
 家光は、上野の山に東叡山寛永寺を開基し、貫主として法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家した宮)を京都から招くこととした。その法親王は、代々、輪王寺宮と称された。
 幕末の寛永寺貫主・輪王寺宮公現法親王は、孝明天皇の弟宮つまり明治天皇の叔父宮にあたり、きわめて天皇に近い人物であった。

 小野日記、6月20日
 『宮の御輿、米沢に御到着。この時、上杉家若君、重役中老等を従え城下入口までお出迎えする。その後、米沢城に御滞在する』
 同日記、6月23日
 『宮が奥羽諸藩を指揮して白石城を仮御座所にされることを、仙台、米沢両藩一同がお願いし、お聞き済みのこととなった』
 同日記、6月27日
 『宮、米沢城を出立、同日新宿に御泊』
 同日記、6月29日
 『宮、白石城に御到着。片倉小十郎が本城の門外にてお迎え』
 同日記、7月 2日
 『宮、仙台城下仙岳院へ御到着。この日、仙台侯御父子が中田宿にお出迎えする』
 同日記、7月12日
 『宮、仙岳院を御出発され白石に向かう』
 同日記、7月13日
 『宮、仙台より再び白石城に御到着。板倉侯と山中侯が拝謁する。その後、奥羽越同盟諸藩が日に日に城下に集まる』
 仙岳院門前石碑、9月2日
 『宮、白石より仙岳院に帰還』

 白石城は、天守閣と大手門が往時の木構造で忠実に復元されている。他に本丸の建造物などは一切残されていない。一面、草地になっているばかりだった。
 私は、本丸跡に、白石市生涯学習課で入手した平面図を手に立っていた。往時この場所は、輪王寺宮の御座所になっていた。平坦な草地の上に、御殿の様子をあれこれ想像した。
 平面図の北西の角に御成上段と記された部屋がある。天守閣の直近である。宮が過ごされていた部屋に違いない。
 7月13日に奥羽越列藩同盟諸藩の代表が参集した部屋などを探しながら、その平面図を本丸跡の空間に落とし込み、宮の仮御所とも言われた本丸御殿の姿を思い浮かべていた。
 私は、ここが東方政権の政庁となっていた場所なのだと改めて考えながら、一面の草地に夏の光が降るばかりの本丸跡に、しばらく立っていた。
 突然、松尾芭蕉の句が頭をよぎった。―夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡―


白石城(大櫓)

 文中で白石城の天守閣と表記しているが、往時、天守閣という呼称は使われていなかった。徳川幕府は〝一国一城一天守〟という掟を定めていたので、同じ伊達の所領に仙台・青葉城の他に天守があることは許されなかった。そこで、どこから見ても立派な天守閣を大櫓(おおやぐら)と呼んだ。
 白石城の直ぐ下の武家屋敷(旧小関家)を訪ねた。水が勢いよく流れる堀に架かる小さな木橋を渡って入る。小ぢんまりとした住居であるが、当時の中流武士の生活を彷彿させるような佇まいだった。内部は、当時の文書から復元したようだが、良く出来ている。手入れも行き届いていて、貴重な史跡を残している。
 その近くの「白石うーめん・やまぶき亭」で遅い昼食をとった。「うーめん」という食べ物は初めてであったが、汁の味も麺の茹で具合も絶妙だった。
 白石うーめん(温麺)は、ここ白石で江戸時代の初めに生まれた。一般の素麺と違って油を使わない製法で打たれる麺である。細く真っ白な麺は、腰がありながら喉越しも大変良い。やや暑い昼さがりだったが、温かい麺がとても上品な味で美味しかった。

 
小関家

 仙台がどうして杜の都と呼ばれるようになったのか、私は、正確に知らない。
 しかし、定禅寺通り、広瀬通り、青葉通りなど広い通りは、ケヤキなどの並木道となっていて、実に気持が良い。
 特に夏の早朝、街を散歩していると、昨日の大量の排気ガスが清浄され新たな酸素が供給されたようで、とても爽やかである。日差しがきつくなる昼時も、大きく枝葉を拡げた木々がそれを遮ってくれる。
 東京には、仙台のような緑豊かな街路が極めて少ない。
 東京は、昭和20年(1945)3月から5月にかけて、米軍の空襲によって壊滅的な被害を受けた。空襲を受けたという点では仙台も同じはずである。東京と仙台では、その復興の様子が全く違っていた。
 東京の復興では、とにかく道路造りが最優先され、人の住む街を作ろうという思想が決定的に欠けていた。つまり、焼け野原になった東京における都市計画は、単なる道路計画に過ぎなかった。さらに、行政の道路担当と緑地担当、それぞれの業務の連携がうまくいかなかった面もあったかもしれない。よく言われる縦割り行政の弊害だ。
 仙台では広い道路を造る時、必ず高木を植え並木道とし、それに低木を添え緑豊かな街路とした。それが、今日の二つの都市の姿に歴然たる差として現れた。


仙台城(青葉城)本丸跡

 私は、仙岳院の位置を、輪王寺宮にご滞在いただいたのだから伊達家の居城である青葉城の近くと勝手に思い込んでいた。しかし、それは全く違っていた。
 「文久二年仙台城下絵図(斎藤報恩会蔵)」という当時の城下を鳥観図としたものがある。
 そこに、本丸、大橋、瑞鳳殿、国分町、大町通り、芭蕉の辻など、現存している名称が書き込まれている。仙岳院は、その絵図の中に無く、上方に装飾的に描かれている雲のさらに先の位置にあった。
 私は、その寺を訪ねる時、仙台駅から北へ一駅、仙山線を利用して向かった。青葉城から直線距離でおよそ6kmも離れている。仙岳院は、徳川家康を尊崇する仙台二代藩主・伊達忠宗が創建した東照宮の別当寺として、同じく忠宗によって東照宮の脇に開山した寺である。


仙岳院

 この時、藩主・伊達慶邦は、米沢、白石では城内に滞在されていた輪王寺宮を、なぜ居城から遠く離れた寺に滞在させたのであろうか。それには慶邦の思惑があったのだと、寺の門前に立ち東照宮の鳥居を見て気がついた。
 その時、仙台藩は主戦派と恭順派に分かれ藩内闘争で揺れていた。
 慶邦は考えたに違いない。城内や城近くに宮を置いて万一にも主戦派に宮を担がれ城内に籠もられでもしたら、引っ込みがつかなくなる。すでに仙台に入っていた奥羽鎮撫総督・九条道孝と完全に敵対してしまう。一方、日光東照宮の山主でもあった宮に、東照宮の別当寺を御座所としていただくことは道理にかなっている。
 こうして、輪王寺宮の御座所として、仙岳院が選ばれたのであろう。
 それは、過去にも困難な状況にありながら伊達家が生き長らえてきた、藩祖・政宗以来の処世術であった。

 仙台市史、 9月18日
 『仙台藩主伊達慶邦、新政府軍に降伏し青葉城を開城』
 小野日記、 9月19日
 『榎本(武揚)氏等、城下を出る』
 仙台市史、10月12日
 『輪王寺宮、藤堂藩兵に護衛され、輿に乗り仙岳院を出立し京都に向かう』
 小野日記、10月12日、
 『小野権之丞、仙台石巻より榎本武揚指揮下の蟠龍丸に乗船、蝦夷地箱館に向かう』

 輪王寺宮は、翌2年(1869)9月まで京都で謹慎の後、還俗し北白川宮能久親王と称される。28年(1895)、台湾征討の陣中にて薨去。国葬に付される。享年48。能久親王は、明治天皇の良き相談者として、人生の後半を全うされた。
 (平成26年7月、鈴木 晋)

 (次回は、箱館戦争の野戦病院となった箱館病院と小野権之丞についてです)

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