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消えた我が町のお殿様像

2019年10月06日 23:32 by norippe

 8月の末に行われたミニミニ講演会の記念すべき第500回は、いわき市長の清水氏を講師に迎えて行われました。平成27年、30年と連続でいわき市で開催された太平洋・島サミット。清水市長はその時のサモア服を来ての来場。「明るく元気ないわき市を目指して」と題して講演を行いました。

 地元、いわきで撮影された映画「超高速!参勤交代リターンズ」では清水市長も出演し、深キョンから「市長さんは演技がお上手ですね!」と褒められたと自慢げに話をしていました。市長を辞めたら役者で食っていけるかも。ちなみにカラオケが得意で、18番は森進一。今にもマイクに向かって歌い出すのではないかと言った雰囲気でした。(笑)

 討論会ではやはり磐城平城の再建の話が上がりました。民間の手に渡った平城本丸跡地は90%の買収が進み、いよいよ本格的に動き始めたようです。櫓の建設に関しては10億近いお金がかかるので、まだ先の話になるとの事。

 磐城平城といえば、まず頭に浮かぶのが幕末に老中として活躍した安藤信正。その安藤信正公の銅像が磐城平城から少し離れた松ヶ岡公園の高台に立っていますが、この磐城平城の再建を機に、いっその事、銅像をお城に移設してはどうかという話が出ている、と、この講演会の討論会で持ち上がりました。
そこで清水市長が言うには「磐城平城は安藤信正ひとりのものではない。最初に城を築いた鳥居忠政、その後の内藤政長、そして井上正経が支配したお城なので、移設は考えていない。」ときっぱり噂を打ち消しました。

 JRいわき駅前の駐輪場横には安藤信正を紹介する大きなパネルが設置されています。いわき市の歴史の中ではこの安藤信正の存在は大変大きなものがあります。


いわき駅前駐輪場入口横に建つ安藤信正公の案内版

 現在、いわき市の松ヶ岡公園に建つ安藤信正公銅像は2代目になります。紆余曲折を経て現在に至ったこの銅像の歴史をいわき市ホームページで語られていますので、ここで紹介をしたいと思います。



初代安藤信正公の銅像(大正時代 郵便絵はがき)

 松ヶ岡公園の園内には、磐城平藩主・安藤対馬守信正(あんどうつしまのかみのぶまさ)公の立像が設置されています。
 信正公は、江戸時代末期の弘化4(1847)年に藩主となり、万延元(1860)年には幕府の老中に就任。外国事務取扱を務め、開国をめぐって外国との修好条約を結び、幕府と朝廷の縁を強化する公武合体(こうぶがったい)など、国政に力を尽くした人物です。この功績を称え、旧藩士の集いである平安会の提唱により、大正11(1922)年6月に建立されたもので、製作者は平町字八幡小路の彫刻家・本多朝忠氏です。台座は4m50cmもあり、像の高さは3m、合わせると7mを超えるという大きな建造物です。
 その立像は、大正時代から昭和時代へ、平市街の発展を見守ってきましたが、昭和10年代に入ると、次第に戦争の影が忍び寄ってきます。
 日本が参戦した昭和16(1941)年の太平洋戦争以降、戦争を継続するための物資不足が深刻化。さらに戦局悪化で、大砲などの原材料となる金属類を回収するため、昭和18(1943)年には「貴金属等非常回収要綱」が閣議決定されました。
 この要綱により、家庭や職場にある金属類は供出(きょうしゅつ)しなければならなくなりました。戦局が悪化するにつれて、それだけにはとどまらず、社寺の鐘楼(しょうろう)や学校の二宮金次郎像などの公共施設の金属類も対象となっていきます。同様な理由で松ヶ岡公園における安藤信正公の銅像や子鍬倉(こくわくら)神社における大越中佐の銅像も、例外ではなく供出されました。
 この二つの銅像は昭和19(1944)年1月、戦列に参加するための壮行会が行われ、台座を残し像は姿を消しました。
 関係者だけでなくほとんどの人は、おそらくは像は溶かされ大砲として御国(おくに)のために役立った、と思ったことでしょうが、戦後、事は想定外の憶測を呼びました。
 昭和20(1945)年12月20日付の新聞『磐城春秋』によると「安藤信正侯の銅像が目的地の釜石(岩手県)迄(まで)ゆきつかずに、宮城県塩釜市に滞留中終戦となり、市民の誠意も空しく、風雨にさらされている」と報じられました。その一方、昭和28(1953)年9月10日付の『いわき民報』では、関係者の弁として、屋敷内に持ち込んでいた銅像を当局の嘱託古物商がつぶして運び去った、たぶん砲弾になったのではないか、と語尾に希望的観測を滲ませて報じられていますが、顚末(てんまつ)は明らかではありません。
 供出された直後、銅像が供出されるのを惜しんだ平市民の気持ちを汲(く)んで、平市などの関係者は精神教化のために、陶器あるいはコンクリートによる代用品を建てようという機運を盛り上げました。しかし、外型の製作に着手したものの、戦争が激しくなるなか、中断し、実現することはありませんでした。


台座が残されたままとなっていた安藤信正公の銅像(昭和30年頃、「たいら観光絵はがき」平市観光協会)

 戦争で供出された安藤信正公の立像を復活させよう、という動きは、戦後の混乱期が落ち着いた昭和20年代後半から活発になりました。
 平安会を中心として「安藤信正公銅像再建期成同盟会」(会長=諸橋久太郎氏)が結成され、昭和32(1957)年から資金捻出や製作について協議を続け、募金活動が開始されました。製作は前回と同様、本多氏へ依頼しました。台座が残されていたこともあり、規模は以前のモノと同じとしました。
 銅像の鋳造製作は着々と進ちょくし、昭和36(1961)年4月には原型が完成。しかし、建設資金は容易に集まらず、関係者を悩ませました。この事態に平市議会としても、無視はできませんでした。昭和36年6月開会の市議会では補正予算として100万円が計上されました。
 この提案には、“建設の是非を最初に論議すべきだったのではないか”、“100万円の根拠はなにか”などの議論が続出しましたが、最終的に可決されました。建設費の調達に目途がつき、除幕式にこぎつけたのは、昭和37(1962)年7月のことでした。
 この立像のかたわらには、平成19(2007)年2月、同記念事業実行委員会が磐城平藩主安藤家の入部250年を記念して、説明板並びに記念碑が建てられました。
 社会の波にさらされながら、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、現在に生きる安藤信正公の銅像。昭和10年代以前に建てられた多くの銅像や寺社の鐘楼(しょうろう)とともに消失の憂き目に遭いましたが、復活したのは、江戸時代末期の内憂外患(ないゆうがいかん)の荒波に揉(も)まれるなか、懸命に日本の舵取りをした功績の大きさを示すものではないでしょうか。(いわき地域学會 小宅幸一)

 この安藤信正公銅像は、城主としての勇姿を現すため、安政5年に勅書を持って単身、水戸藩に乗り込んで行った時の姿に本多氏の独創的なイメージを加えて作成されたものであります。


銅像作成の本多氏(昭和36年4月8日、いわき民報新聞)


現在の安藤信正公の銅像(平成29(2017)年4月、いわき市撮影)

いわき市ホームページ いわきの『今むがし』Vol.69より


(記者:関根)

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