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会津藩松平家墓所

2019年05月04日 18:50 by tetsuo-kanome

 「会津藩主松平家墓所」は、会津藩の第二代藩主保科正経公から幕末の第九代藩主松平容保公までが葬られており、「院内御廟」と呼ばれ親しまれております。その面積は約15万平方メートル、東西500mを超える広い山原に墓地が並び、全国的にも珍しい神式で葬送されており、構造もこの墓所独特なものになっております。昭和62年5月に国の史跡に指定されました。

 私は、「会津藩主松平家墓所」へ行く前に、あらかじめ、会津若松市の観光ビューローに電話し、「会津藩主松平家墓所」への道順を聞いたところ、東山温泉の「ホテル御宿東鳳」への道を更に登っていくと、道路沿いに「会津藩主松平家墓所」の看板があり、路上駐車すると簡単に墓所へ行けることを聞きました。長い長い上り坂の階段を上ることもなく辿り着くことができました。入り口には「熊出没注意」の看板もあり、観光客は一人もおらず、私は「熊よけ」のため、スマホの音楽を最大限の音量にして、墓所を巡りました。前置きが長くなりましたが、第二代藩主の保科正経公のお墓から第九代藩主の松平容保公のお墓を順番に参拝しました。

 

【第二代藩主 保科正経 (まさつね)公 】

 初代正之の遺志をつぎ学問の奨励などに力を注ぐも、病弱でわずか12年で藩主の座を退きました。文冶主義 将軍綱吉の時代に行われた、文教を奨励し、人心の教化をはかるとした政治方針。会津藩でも儒学者・神道学者・算法暦法家を重く用いたり、あるいは招へいして学問を奨励し、組士のうちからも学問のあるものを重く用いました。儒学者横田三友(俊益)が会津で初めての学校「稽古堂」を建てました。1688年(元禄元年) には新しく町講所が建てられて、庶民の学問が奨励されました。

 【第二代会津藩主保科正経公の墓】

  

【第三代藩主 松平正容 (まさかた) 公】

 第三代会津藩主から松平姓を名乗るようになりました。学問を奨励しました。年貢制度の改正。蝋・漆等の特産物の増産による商工業の振興。これら特産物を大量に領外に売り出すための流通促進策として、阿賀川水路の整備・猪苗代や南会津への新しい道路の整備。猪苗代(沼の平)での硫黄山の開発鉱業など藩独自の政策を実施。藩内にだけに通用する金札銭札などの藩札を発行、藩の財政改革を行いました。

  【第三代会津藩主松平正容公の墓】

 

 【第四代藩主 松平容貞 (かたさだ)公 】

 会津藩江戸屋敷の火災・若松城下の大火災・三代藩主の病死等災難が続きました。さらに江戸城堀さらい普請などで藩財政が逼迫しました。この頃、南山御蔵入(南会津)地方に百姓一揆が起きこの一揆が各地に波及、猪苗代・喜多方・塩川などでも一揆が起きました。農民若松城下に強訴。冷害と天候不順による天明の大飢饉。酒造を禁止し窮民に社倉米をあたえました。幕府より銀300貫・参勤交代1年免除を受け、貧窮する藩士や農民を救済しました。

【第四代藩主松平容貞公の墓】

 

 【第五代藩主 松平容頌 (かたのぶ) 公】

 家老田中玄宰を登用し「寛政の改革」を断行。多方面にわたり改革を実施し、江戸時代における会津藩中興の偉業を成し遂げます。農村のたて直し・手工業の興業・軍政改革・学制改革による藩校日新館の創設など藩政の改革をすすめました。酒造・漆器などの産業が盛んになり農村も藩政も安定し藩の力を蓄えます。「家政実記」(1631年(寛永8年)から1806年(文化3年)まで175年間の藩の記録を277巻まとめた史誌)と「新編会津風土記」(藩内の郡の歴史・風俗・気候・地勢や、各村々の様子を詳しく書いた地誌)が完成しました。 ●藩校日新館の創設 会津藩5代藩主松平容頌のとき、家老田中玄宰は藩政改革の一環として学制の大刷新を建言した。その柱が藩校日新館の建設だった。亨和3年(1803)、5年の歳月を費やして完成した。藩士の子供は日新館入学前の6歳から9歳まで、地域ごとに組を作り、「什(じゅう)の掟」というルールに基づいて、お互いに武士としての心構えを学びました。会津藩校「日新館」は、江戸時代300藩中随一との評判をとりました。白虎隊の精神もここで培養されました。

 <藩校日新館童子訓>  什 の 掟 . . . ならぬことはなりませぬ

 1.年長者の言ふことに背いてはなりませぬ

 2.年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

 3.虚言をいふ事はなりませぬ

 4.卑怯な振舞いをしてはなりませぬ

 5.弱い物をいぢめてはなりませぬ

 6.戸外で物を食べてはなりませぬ

 7.戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

 

【第五代藩主松平容頌公の墓】

 

 【第六代藩主 松平容住 (かたおき)公 】

 第4代藩主松平容貞の弟容詮の第2子。藩主在任わずか5ヶ月、28歳で没。

 【第六代藩主松平容住公の墓】

 

 【第七代藩主 松平容衆 (かたひろ) 公】

 第6代藩主松平容住の第2子。藩主在任16年、20歳で没。藩主の座に着いたのは、わずか4歳のときでした。

【第七代藩主松平容衆公の墓】

 

 【第八代藩主 松平容敬 (かたたか)公 】

 1806-1852 第6代藩主 松平容住の子という説と、美濃高須藩9代藩主松平義和の子という説とがあります。高須藩から会津藩第7代藩主松平容衆の養子となります。娘の婿に同じく高須藩から松平容保を迎え入れました。

【第八代藩主松平容敬公の墓】

  

【第九代藩主 松平容保 (かたもり)公 】

 天保6年~明治26年(1835~1893) 幕末から明治・戊辰戦争の頃にかけての、悲運の会津藩最後の藩主。岐阜県美濃高須藩3万石松平義建(よしたつ)の6男で、12歳の時に会津藩主松平容敬の養子となった。18歳で藩主となり、28歳の時に京都守護職として、京都の治安と公武合体に力を尽くし、時の考明天皇の厚い信頼を得ます。江戸帰還を命ぜられた浪士組のうち京都残留を希望する近藤勇らを御預とし、のちの新選組である「壬生浪士組」を誕生させます。その後倒幕派は形勢を逆転、戊辰戦争へ突入する。鳥羽・伏見の戦後その立場は暗転、忠誠を貫いてきた将軍慶喜には江戸城への登城禁止を命ぜられ、朝廷からも逆賊の汚名を着せられ、会津落城後は妙国寺に謹慎、のち和歌山藩に移された。明治5年に謹慎を解かれ、13年より東照宮宮司に任ぜられた。以後の生涯は、宮司職のかたわら、歌道にのみ没頭し世を去りました。享年58歳。晩年、いくら問われても、幕末・維新については一言も語らなかったと言われております。

【第九代藩主松平容保公の墓】

 

【照姫の墓】松平容保公の墓の近くにひっそりと照姫の墓がありました。

 

【会津藩歴代藩主肖像画】

 

 「会津藩主松平家墓所」を巡って、山の中にこれだけの広大な墓所はまさに圧巻で、静寂の中に荘厳な雰囲気で、これまでの会津藩の尊厳、栄華、栄光を改めて感じることができました。まさに、心が洗われる思いでした。

 

【記者 鹿目 哲生】

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