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横浜の小さな村で起きた大きな事件

2019年05月05日 12:03 by norippe

 文久2年8月21日、横浜郊外の小さな村である事件が起こった。やがてその事件が、日本の将来を大きく変えて行く事になるのである。
 薩摩藩主の島津久光は、一橋慶喜を将軍後継職に松平春嶽を大老にする要求を携え、勅使と多くの供回りを連れて江戸に出向いた。幕府はかなり力が弱まってきている。それで久光は自分の出番だろうと、ここで我々が中央政局に出て行けば幕藩体制の立て直しが図られるのではないか、その中で薩摩の力を強めて行こう考えた。そんな久光の意気込みを示すかのように、行列には若き側近の小松帯刀や大久保一蔵など、久光のブレーンが勢揃い。さらに奈良原喜左衛門ら剣の達人たち、その中には外国人排斥を目指す攘夷に燃える者も加わっていた。精鋭400人の行列はまさに薩摩藩の最強軍団だったのである。
 その江戸からの帰り道の事である。久光自身も幕政に何としても関わりたいという思いであったが、幕府との話は思うように行かず、京への帰り足は重く、苛立ちをつのる久光一行であった。そんな状況のなか、乗馬を楽しむ男女4人のイギリス人一行と薩摩の大名行列が東海道の横浜生麦村で遭遇したのである。

 このイギリス人4人は日本のしきたりを知らなかった。先頭のリチャードソンとマーガレットは、左端を馬に乗りながら進んだ。馬から降りず通行する無礼な外国人に藩士たちは怒りを覚えた。最初の隊列とはなんとか行き交ったものの、今度は久光の籠を囲む本体は道幅いっぱいにやってきた。逃げ場もなくついに行列に入り込んでしまったリチャードソン。そして悲劇は起こった。
 最初に動いたのは奈良原喜左衛門。馬上のリチャードソンを左肩から斬りかかったのだ。これをきっかけに薩摩藩士が一斉に抜刀。イギリス人達に襲い掛かった 。逃げる途中さらに切りつけられたリチャードソン。内臓が飛び出るほどの重傷を負ったリチャードソンは、1キロほど走った村のはずれでついに馬から崩れ落ちた。後を追って来た薩摩藩士は瀕死の状態のリチャードソンに、武士の情けとして最後のとどめを刺した。イギリス人と薩摩藩士、それぞれの立場で良かれと思ってとった行動が思わぬ悲劇を生んだのだ。偶発的に起きたこの事件、「生麦事件」と言って、幕府そして薩摩の運命を大きく変えていく事件であった。


旧東海道の生麦事件が起きた現在の場所


現場に設置されている生麦事件の案内板


事件現場から数百メートル先に建つリチャードソン絶命の碑

 事件の後、久光一行は当初の予定通り、その日の宿泊地である保土ヶ谷に入った。一方突然起きた惨劇に横浜の外国人居留地は騒然となったのである。事件を報じた居留地発行の新聞号外では事件当日の経過が伝えられていた。逃げ帰ったマーガレットの知らせを受け50人が捜索に出発、村はずれの畑にリチャードソンを発見したのだ。それは世にも無残な血まみれの遺体であった。夜10時、怒りに燃える外国人たちは緊急会議を開いた。「まだ遠くには行ってない、薩摩大名の宿を襲撃する。」激しい言葉が飛び交うのである。深夜3時、居留民代表は軍事行動を求めて、時の駐日代理行使ジョン・ニールを訪ねた。しかしニールはかたくなに軍隊の派遣を拒否したのである。「この事件は外交的に処理すべきだ」とニールは言う。彼は生麦事件の持つ重大性を認識していた。開港以来外国人殺傷事件が続発。ロシア海軍軍人殺害、オランダ船長殺害、ヒュースケン殺害、東禅寺事件など、その多くは攘夷派浪士によるもので、ほとんど犯人は不明。ところが今回薩摩藩の犯行は明らか。ニールは責任を徹底追及するためにも居留民に慎重な行動を求めたのだ。  
 事件から4日目、幕府使者がニールを訪問した際、彼は質問をした。「幕府には薩摩藩の侍を逮捕する権限や実行力があるのか?」 薩摩は強力な雄藩で、幕府は犯人の引き渡しを藩主に強制できない。この時ニールは幕府とは別に、藩という地方政権が大きな権限を持っていることを確認するのだ。そして事態をイギリス本国に報告し判断を仰いだのである。
一方、生麦事件の加害者である薩摩藩島津久光一行は、正当防衛による無礼討ちを主張。責任をうやむやにしたまま京都に戻って来たのである。そこで久光を迎えたのは、よくぞ偉人を切ったと褒めそやす声。しかし久光は苦々しい思いでいっぱいだったと言う。久光は改めて過激な攘夷論を諌める意見書を朝廷に提出したのだ。
 今、無謀な攘夷で戦争を行えば勝つのは難しい。国内の武備充実が先決だ。しかしこの時、攘夷一色となっていた朝廷は全く理解を示しめさなかった。過激な攘夷に反対しながらも生麦事件で攘夷の王者とみなされた久光。不本意ながら鹿児島に帰って行ったのである。
 事件から4か月後、ニールの報告を受けたイギリス政府は対応策を決定した。それは幕府と薩摩藩それぞれに責任を取るものであった。幕府に対しては政府としての監督責任を問い、正式の謝罪と賠償金10万ポンド、今の金額で240億円とも言われる巨額賠償請求であった。一方薩摩藩には犯人の即時逮捕及び処刑を要求。また事件の被害者達に2万5000ポンドを支払うよう求めたのである。
 文久3年2月19日、ついにイギリス艦隊が政府の要求を携えて横浜に入港してきたのである。イギリス艦隊が政府に突き付けた書簡には険しい内容が書かれていた。幕府が要求を拒絶した場合イギリス側の報復が記されていたのだ。
 即刻軍艦をまわし大阪長崎函館その他諸港に至るまで出入りの船を奪い、さらに江戸を焼き払うというのだ。イギリス側の強硬な姿勢が示されていた。これはただの脅しではなく具体的な計画があった。日本に対しての武力発動方法を考えるようになっていた。日本の主要な港を封鎖するとして瀬戸内海の交通を遮断して、米であるとか日用品の江戸への流通を阻止する、さらに江戸湾の品川台場を襲撃するというようなところまで検討していた。
 対応に苦慮した幕府。この時、朝廷からは攘夷を迫られていた。賠償金を支払えば激しい非難にさらされる。どうすべきか結論が出せないまま幕閣は再三にわたり回答の延期を願い出たのである。そしてニールは激怒した。「4月20日に回答が無ければ交渉決裂とする!」迫る戦争の危機と攘夷を求める国内勢力。板挟みとなった幕閣は迷いに迷った結果、賠償金の支払いを実行。とりあえず戦争の危機を回避したのだ。なかなか決断できない幕府をよそに、薩摩は自分たちには非はないと主張し続けたのである。この態度が後に新たな事態を産むことになるのである。イギリスは久光の首を要求しているという情報が流れ、薩摩藩の攘夷派は激怒するのである。戦争やむなしの空気に久光も 開戦を覚悟するのであった。

 文久3年6月27日、ついに7隻のイギリス艦隊が鹿児島沖に出現。賠償を要求するが薩摩はこれを拒否。7月2日夜明け前、イギリス艦隊が動き出した。突然、薩摩蒸気船3隻を拿捕したのだ。これを宣戦布告とみなした薩摩藩は攻撃を開始。薩英戦争が始まったのである。
 二日間の砲撃戦。この戦いでイギリスと薩摩の双方に思惑を超えた事態があったのである。実はイギリス艦隊、戦争をするつもりはなかったのだ。大砲に砲弾を装填していなかったイギリス、旗艦ユーリアラス号は弾薬庫の前に幕府からの賠償金を積み上げており、反撃するまでに2時間以上もかかったのである。さらに薩摩の砲弾が命中し、艦長と副艦長が即死、二日間で薩摩側の死傷者は24名だったのに対し、イギリス側は63名に及んだ。
 この時イギリス艦隊の砲撃が鹿児島の街に飛び火し、折からの大風で街は火に包まれてしまったのである。キューパー提督はこれを戦果として強調しイギリス本国へ報告したのである。それがイギリス議会や世論の大きな避難を呼んだのだ。非武装の一般人の家をこのように破壊することが今後の戦争における洗礼となれば、人類にとって想像もできない恐ろしいことになるであろう。恥ずべき犯罪行為とまで糾弾され、ヴィクトリア女王が遺憾の意を表明する事態にまで発展するのであった。
 一方の薩摩、久光はイギリスとの戦力差を痛感していた。薩摩藩の丸い砲弾に対してイギリス側は溝が掘られた砲弾で、実に4倍の飛距離がある。薩摩の被害は甚大であった。その砲台はほとんどが破壊されてしまった。街も火災で大きな被害を受けた。無謀な攘夷は出来ないと久光は改めて実感したのである。薩摩とイギリス、もはやこれ以上の戦闘を望まなかった。
 焼け野原となった鹿児島の街。島津久光はイギリスとの講和を決断したのである。交渉役に久光が選んだのは薩摩藩士重野厚之丞。学者肌で知学に長けた重野は、下級士族でありながら久光と直に言葉を交わせる庭方役、交渉の全権を任されたのである。
 横浜のイギリス公使館で講和交渉は行われた。「もともとイギリスと日本は条約和親の国、日本に属する薩摩も貴国と戦争する理由などはなかった。」身構えていたニールはその言葉を聞いて「私達も同様、日本は条約国。薩摩のみならず日本と戦争する理由はない。」交渉はお互いの有効を確認するところから始まったのだ。しかし重野は一変、毅然とした態度でイギリス側に先手を打ったのである。「戦争になった理由は我が蒸気船を何の知らせもなく奪ったため、やむを得なく発砲したのである。」そしてニールは弁明に追われた。「戦争するつもりではなく交渉のために奪ったのだ。私たちは賠償を求めるため鹿児島に行ったのであって、決して戦いをしたかったのではない。薩摩とは仲良くしたいので、まずそちらから和議の申立をして欲しい。」そこで重野が発した言葉は相手の意表をつくものであった。「イギリス人を切ったものを罰し、賠償金をお渡ししましょう。ただし蒸気船を奪ったことはどのようにしていただけるのか、この戦争はまったくそちらから手を出したのであるから、その答え次第で方針を考えましょう。」
 生麦事件についてはあっさり非を認めても、薩英戦争の責任はイギリス側にある。重野は双方に非があるとして交渉をイーブンな立場に持ち込もうとしたのである。そして一日目が終わり、そして二日目に入ったが交渉は平行線を辿った。
 その日の夜、交渉決裂だけは避けたい薩摩側。重野は皆を驚かすある秘策を練ったのである。三日目、重野はニールに切り出した。「賠償金を支払う。ただし条件がある。軍艦を買い入れたいので斡旋していただきたい。」ニールはその申し出にあっけにとられた。賠償金支払いの決定は本来自分の役割を超えたこと。しかしその条件として軍艦を購入すれば両国渾身の印となり、主君への申し訳も立つ。「しかし一体誰と戦争するつもりなのか?」「今誰が敵ということはないが、兵備として備えておきたい。一隻のみとは言わず、おいおいは数隻注文したいと思っている。」イギリスにとっては通商こそが本来の目的。ニールは喜んで提案を受け入れたのである。「20隻でもお世話しましょう。」重野は軍艦の買い入れを持ち出すことでイギリスとの賠償交渉を一変、通商交渉へと転換させたのであった。更に重野は軍艦の操縦法を学ぶため、若者30人を留学させることまで提案したと言う。つまり敵に学ぼうという姿勢を見せたのである。人材育成まで持ち出すということで、その方法まで視野に入れて交渉に望んでいたのだ。
 こうして薩摩藩は賠償金の支払いを済ませた。もともとこのお金は幕府から強引に借りたもの。戦争を避けたい幕府は了承。結局薩摩は一文も払ってはいないのだ。知略と外交に長けた薩摩の交渉術、以後イギリスと急速に近づいて行ったのである。

 久光のもとで様々に尽力したのが若き家老小松帯刀であった。長崎のイギリス商人グラバーから最新の武器や軍艦を購入。軍備の増強を図った。さらにイギリス公使パークスを鹿児島に招待。これを契機にパークスは幕府指示の方針を転換させたのだ。こうした動きの中、久光はついに幕府に見切りをつけるのである。
 そこで目を付けたのが宿敵長州藩。それまで長州は過激な攘夷に突き進み、薩摩と激しく対立する関係であった。しかし長州藩は下関で外国艦隊に完璧なまでに叩かれ考えを変え始めていた。長州も下関戦争で攘夷は無謀だということがわかったのだ。薩摩と長州が同じ方向に向いたのである。薩摩藩は小松を中心に長州との提携を模索。当時窮地に立たされていた長州にイギリスからの武器を密かに渡したのである。
 武器の横流しが幕府にわかってしまうとまずいので、それを亀山社中(貿易商社)の坂本龍馬に振るのであった。こうした薩摩のトリックが坂本龍馬を薩長同盟締結の立役者に押し上げたのである。
 生麦事件をきっかけに生まれた幕末最大の転換。そして倒幕を目指す薩摩と長州は明治維新の中核を担っていくことになるのである。

(記者:関根)

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