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ザ・戊辰研マガジン

2019年04月号 vol.18

ジョンマンと呼ばれた男

2019年04月05日 22:14 by norippe
2019年04月05日 22:14 by norippe

 戊辰研マガジン1月号でクジラの話をしましたが、その中で幕末の開国にクジラが関わっていたという、いわゆる黒船来航。その開国とクジラにまつわる元となる話をここで紹介しましょう。

 幕末にクジラとの不思議な縁で日本の歴史を変えたとされる人物がいた。それはジョン万次郎(中濱万次郎)である。漁師であった万次郎は、幕末、ひょんな事から異国に渡り日本の国際化に尽くしたのである。
 今から約170年前、嵐に遭遇して命からがら無人島に漂着した万次郎。その彼を救ったのが近くでクジラ漁業を操業していたアメリカの船であった。万次郎はその船に助けられ、アメリカに渡ったのである。


ジョン万次郎

 江戸時代、幕府は鎖国政策を敷き、外国との接触を厳しく制限していた。しかし世界的に海運や漁業が活発になると、外国船が度々日本近海に姿を現すようになったのだ。
 文政8年、幕府は一層態度を硬化させ、外国船を見たならば直ちに攻撃せよと各藩に命じるのである。
 文政10年、万次郎は土佐の国現在の高知県土佐清水市の漁村に生まれた。漁師だった父は幼い頃に他界、万次郎は年端もいかない頃から奉公に出て家族を支えていたのである。しかし万次郎には貧しい暮らしなどものともしない豊かな発想力があった。例えば子守の最中でも友達と遊ぶ方法、陸揚げされている船の舳先に網を結びつけハンモックを作ったのだ。赤ちゃんを寝かせて友達と遊んでいたとか、身分制度の厳しい土佐の地で将来に不安を抱えながらも万次郎はたくましく生きていたのである。天保12年、14歳の万次郎は漁師になった。そして初めての海へ。しかし万次郎達は嵐に遭遇してしまったのである。

 船を操る櫓を失い、海原をあてもなくさまようことになってしまった。六日間の漂流の末、たどり着いたのは伊豆諸島の南の果て鳥島。故郷の土佐から750 km も離れた絶海の孤島であった。幸い船に乗っていた5人は全員無事。しかし島には食料になるものはほとんどなく、飲み水もなかった。万事休すである。何か腹を満たせるものは無いか。窮地に追い込まれた万次郎であったが、生き抜く気力は失ってはいなかった。そこで目をつけたのがアホウドリ。繁殖のため島に大量に飛来していた。万次郎はアホウドリを捕まえては仲間とわけあい飢えをしのいだ。さらには美味しく食べる工夫までして、肉の天日干しには舌鼓を打ったのである。
 そんな生活が5ヶ月ほど続いたある日、沖合いに一隻の船が現れたのである。万次郎たちの必死の叫び声が届き、救助の小舟が近づいて来た。ところが現れたのはいずれも逞しき大男。その髪や肌の色服装も見たことのないものばかり。万次郎たちは鬼ではないかと恐れおののいた。この時やって来たのはもちろん鬼などではなく、アメリカの捕鯨船ジョンハウランド号の乗組員たちであった。この頃、最盛期を迎えていたアメリカやヨーロッパのクジラ漁、目的はクジラからとれる油、鯨油である。当時鯨油は照明の燃料や機械油として利用されていたのだ。工業や経済の発展に欠かせない鯨油を求め、各国の捕鯨船はこぞって海に出ていた。万次郎たちを助けたジョンハウランド号もそんな一隻であった 。


ジョンハウランド号

 ようやく島を脱出した万次郎、しかしすぐに故郷に帰ることは叶わなかった。当時の日本はいわゆる鎖国体制であったので、もし万次郎が日本に帰るとなると、何らかの処罰をされると万次郎は考えた。外国船を攻撃する日本にはジョンハウランド号も近づけず、万次郎たちがアメリカ人とともに帰国したとなれば死罪の恐れすらある。やむなく捕鯨船が立ち寄るハワイまで同行、それから帰国の道を探ることにしたのである。図らずも始まった外国人たちとの共同生活。そんな中、万次郎は積極的に新しい環境に馴染もうとするのである。
 
“ blows ”これは万次郎がまず覚えた英語。鯨を見つけた時の合図である。万次郎はクジラを取る様子を見ているうちに言葉の意味を理解し覚えたようだ。そして実際に鯨を発見、しだいに船員たちの信頼を獲得していくのだ。いつしか仲間として認められた万次郎は、船の名前ジョンハウランドにちなみジョンマンと呼ばれるようになった。無人島で救助されてから5ヶ月後、船はようやくハワイに入港するのである。ここで船長のホイットフィールドは「我が国アメリカでしっかりとした教育を受けてみないか」と万次郎に思いもよらない提案をした。
 帰国することしか頭になかった万次郎だが、更なる冒険を誘い、新たな世界を見たい!という好奇心から万次郎はアメリカ行きを決めたのであった。1843年、船は母港のマサチューセッツ州ニューベッドフォードに入った。


 日本よりはるかに進んだ様々な技術が万次郎の残した漂巽紀略に記録されている。特に鉄道は天下一珍しいとしるし、4ページにも渡って描かれている。いよいよ始まった新生活、万次郎はホイットフィールド船長の自宅に居候し、アメリカの教育を受けることになった。最初に通ったのは小学校。日常会話はできるようになっていたが、読み書きや文法の理解は別問題、基礎から学び始めたのである。さらに夜には家庭教師もついた。万次郎はホイットフィールドの援助で徹底的に英語を学ぶのである。その成果が万次郎が記した本である。題名は「英米対話捷径(しょうけい)」現代風に言えば今すぐ使える英会話。日本初、本格的な英語のテキストである。英単語の横には実際の発音に近いカタカナを表記する工夫が。その通り読むだけで英会話ができるという優れものだ。猛勉強の末、万次郎は当時の日本人としては最高の英語力を身につけるまでになったのだ。その後わずか1年足らずで小学校を卒業すると、船乗りを育成する専門学校に入学。地理や航海術など高度な専門知識を身につけていった。運命の悪戯でアメリカに渡った万次郎、しかしいかなる状況に置かれても、旺盛な好奇心と柔軟な発想力で自らの道を切り開いて行ったのある。


ウィリアムヘンリーホイットフィールド船長

 ウィリアムヘンリーホイットフィールド、万次郎を救った捕鯨船の船長でありアメリカでの生活を支えた人物である。万次郎は船で初めて出会った時から、ホイットフィールドに気高い人となりを感じ、以来大きな信頼を寄せていた。万次郎のアメリカ生活が始まって間もない頃、ある事件が起きたのである。それは二人で教会の礼拝に出かけた時のことだ。万次郎が教会に入ろうとすると「ここはお前の来るところではない」白人でないことを理由に教会への立ち入りを拒まれてしまったのだ。これに怒ったのがホイットフィールド。そしてこれまで通ってきた教会を即刻退会。万次郎を受け入れてくれる教会を探し出し、そこへ通い始めたのである。ホイットフィールドにはこの時子供がいなかったこともあり、なおの事、万次郎を大切にしたようだ。ホイットフィールドの優しさに支えられながら万次郎は充実した日々を送ったのだ。
 しかしひとつだけ気がかりな事があった。それは故郷に残してきた母、漁での遭難以来、行方知らずの万次郎をどれだけ心配していることか。漂流した時に来ていた母の手縫いの 半てん、それが唯一故郷と万次郎を繋ぐものであった。故郷を想うとき、万次郎は半てんを抱きしめ一人涙したと言う。気持ちとしては望郷の念があり、母親に会いたいんだけど帰国すると処罰される。ホイットフィールド船長にも恩義がある。万次郎の心の中は葛藤の連続であった。
 人知れず苦しんでいた万次郎、その頃、船員仲間から日本への怒りをぶつけられたのだ。「ジョン万!お前の国はとんでもない国だ!なんで困っている人間を助けないんだ」

 あの頃アメリカの捕鯨船がしばしば難破し、乗組員たちが日本に漂着していた。後に帰国したものは監獄に押し込められ、食事すら十分に与えられなかったと証言していた。これにアメリカの与論は猛反発。報道でも大きく取り上げられ、アメリカ市民は日本の鎖国政策を批判、政府に対策を求めていたのだ。「アメリカの船乗りは何も言わずに私を助けてくれた。ところが日本は流れ着いたアメリカ人にひどい仕打ちをしていると言う。「日本のものとして申し訳ない。」心を痛める万次郎、そんな時、ホイットフィールドが常日頃語っていた言葉に思い至るのである。“どんな時も他人の幸せに役立つ術を考えてほしい ”
 自分が受けた恩義に報いるためにも何かしなければ。万次郎はその決意をホイットフィールドへ宛てた手紙に綴っていた。
 「船乗りたちが安心して仕事が出来るよう日本を開国させます」
 開国を実現するために日本に帰ることを決断した万次郎。ただし正面切って帰国すればどんな咎めを受けるか想像もつかない。そこで検討を重ねた末、行き先は沖縄、当時の琉球を選んだのである。琉球は日本の薩摩藩の支配を受けながら中国とも関係が深い王国で、鎖国には関わっていなかったのである。万次郎たちの扱いも穏便だろうと考えたのだ。計画はアメリカ本土を出発後ハワイを経由。ここで上海行きの商戦に乗り換え、琉球に近づいたところで小型ボートを漕ぎだし上陸を試みるというものであった。準備にこそ時間がかかったが、万次郎は計画を着実に進めていったのである。練りに練った上陸が決行されたのは嘉永4年1月3日のことであった。そして万次郎は琉球に到着。目論見通り投獄されたり罰せられたりはしなかったが、役人から事情聴取を受けることになったのである。アメリカで暮らすことになった経緯に始まり、政治経済状況や最新の航海術まで、万次郎が語る驚くべき内容に取り調べは長期にわたってしまった。帰国当時の万次郎は日本語をほとんど話せなくなっており、アメリカ人ではと疑われた。この時万次郎を救ったのは肌身離さず持っていた母の半てんであった。それは日本人である何よりの証拠となったのである。さらに万次郎には各地で同じような取り調べが繰り返された。ようやく故郷の土佐でそれが終わった時、琉球上陸から実に1年半が経っていた。
 14歳で漂流してから11年、万次郎はようやく母の元へと帰り着いたのである。万次郎の墓まで立てていた母は、たくましく成長した息子の姿に涙が止まらなかったと伝えられる。
 念願の再開を果たした万次郎、ホイットフィールドへの誓いの開国という難題に挑む事にした。琉球・薩摩・長崎・土佐、各地でいくども取り調べられ細部まで聞き取りが行われた万次郎のアメリカ体験、それは人々が滅多に知ることのできない情報だったため、海外の事情に関心を持つ幕府上層部や各藩の武士たちに広まっていったのである。
 万次郎が書いた漂巽紀略もそうした万次郎証言録の一つ。アメリカの政治や経済だけでなく、人々の暮らしぶりまで詳しく語られていた。しかもカラフルな挿絵付き。読者の中にはあの幕末の英雄、坂本龍馬もいたと言われる。竜馬が考えた船中八策など新しい国家構想のヒントになったとか。土佐の漁師万次郎遭難に始まる数々の奇跡的な巡り合わせがあったからこそ、その後の日本の歴史が作られた、そう言えるかも知れない。

 江戸時代の中頃になると日本の物流が発達し、全国を船で結ぶ海運業が盛んになった。それとともに嵐や事故で遭難する人々が急増するのである。万次郎と同じ頃、外国船に助けられた日本の船は記録に残っているだけで30。船乗りの中には外国に渡ったものもいた。万次郎と同様にアメリカの船に救助され渡米したのは浜田彦蔵。帰国後日本初の新聞発行を手がけた人物である。またロシア人に保護された大黒屋光太夫。海外への渡航が禁じられていた時代、遭難者たちは図らずも日本と世界をつなぐ架け橋となっていたのである。果たして万次郎はどんな働きを成し遂げたのか。
 幕府の取り調べから自由になった万次郎はその知識と能力を評価され、土佐藩の学校に英語教師として取り立てられた。「日本を開国させる!」万次郎はホイットフィールドとの約束を果たすべく授業の傍、人々に開国の必要性に気づいてもらおうとした。それから半年ほど経った頃、日本中を揺るがす大事件が起こったのである。
 嘉永6年の6月3日、突如浦賀沖に姿を現した4隻のアメリカ軍艦。2キロ先まで砲弾が届く大砲を備えた巨大な蒸気軍艦の出現に人々は騒然となった。艦隊を率いるペリー提督は、戦いも辞さない強い態度でアメリカ大統領からの親書受け取りを迫った。その内容は漂流民の保護、そして捕鯨船の燃料や食料の補給のために港を開くよう求めるものであった。これはすなわち200年続いた日本の鎖国政策の転換を意味したのである。突然の事態に幕府は大混乱をきたした。そしてペリーは回答期限を翌年とし日本を去ったのだ。
 これらの動きに土佐藩の一家臣にすぎない万次郎は、何も関わることができなかった。武力行使の意見が根強い幕府の動向は不安だったに違いありません。しかしその後も幕府の結論は出なかった。要求を断った場合、直ちに攻撃してくるのか、兵力はどのくらいか、などアメリカの内情全く知らなかったのだ。そんな中「土佐の万次郎なるもの、アメリカについて事の他詳しいと聞く、この者を江戸に召し出しアメリカの事情を問いただしてはいかがか」
 万次郎が帰国した際の取り調べ記録を評価していた大名や高名な学者から、万次郎登用の声が上がったのだ。まもなく土佐にいた万次郎に江戸に出頭するよう命令が下った。この絶好の機会に万次郎は強い決意を持って臨んだ。「幕府の上の方々に開国のことを申し上げよう」ペリーが再び日本にやって来るまで4ヶ月に迫った9月12日、万次郎は老中首座阿部正弘の屋敷を訪ねた。知りうる限りのアメリカの情報を話すよう求められた万次郎、この時の表現の数々が記録に残っている。
 「アメリカの者、大小の鉄砲の扱いには慣れています。しかしながら刀や槍の稽古をしたことがありません。日本は、流れ着いた外国人を鳥や獣のように扱うとアメリカの者たちは残念に思っております。」そして万次郎はこう訴えた。「アメリカは我が国と誼を結ぶことだけを願っているのでございます。アメリカには敵意がありません」そう断言した万次郎。当時誰よりもアメリカを知る万次郎のこの言葉に幕府高官たちは動かされだのである。

 万次郎への審問からまもなく、幕府は開国へと大きく舵を切った。そして万次郎は海外事情に通じた重要な人材と認められ幕臣に登用された。さらには本人の強い希望もあって交渉の通訳も務めることになったのだ。

 ところが、万次郎の上役に届いた一通の書状が開国への動きに再び水を指すのであった。差し出し人は幕府の実力者水戸藩の徳川斉昭である。斉昭は万次郎のことをアメリカのスパイではないかと疑っていたのだ。万次郎は10年間アメリカで保護してもらって、アメリカという国に恩義をすごく感じているだろう。だからそういう恩義を感じている国を裏切るようなことはしない、むしろアメリカに有利なことをするのではという懸念。それともう一つはアメリカに妻子を残してきているという噂話が増幅されて、それで万次郎スパイ説というのが広がってしまったのだ。
 このまま万次郎が交渉に関わっていては、幕府内部の分裂にもつながりかねない。幕府上層部の意向で通訳への登用は白紙に戻されてしまった。しかし万次郎が幕府を動かして決定した開国という大方針、それだけは揺らぐことがなかったのである。
 嘉永7年3月3日、日米和親条約締結。ついに万次郎の悲願は達成された。条文の中には漂流民を保護すること、そして捕鯨船などのために港を開くことが明記されていた。ホイットフィールドに誓った日本の開国、万次郎の隠れた活躍で見事その約束を果たしたのである。
 日米交流の礎を築いたジョン万次郎、実はアメリカにこんな記録が残っている。万次郎は開国の交渉をしている部屋の隣室で通訳を務めていた。日米和親条約をめぐる折衝の際、万次郎が裏方として英文の翻訳などをしていたというのだ。 日本側にはそうした記録は一切なく、それが真実なのかどうか現在も謎のままである。

 明治3年万次郎はかつて暮らしたアメリカの家を訪れた。そして命の恩人ホイットフィールド船長と対面、実に20年ぶりの再会であった。二人は互いの思い出や別れてからの出来事を語り合い、話は尽きることがなかった。その後二人の熱い友情は子供たち、さらに孫たちへと受け継がれたのである。
 しかし日米の間に太平洋戦争が始まると交流は途絶えてしまった。そして終戦。一人のアメリカ兵が突然、万次郎の子孫中浜家を訪れたのだ。ホイットフィールド家の依頼で安否を確かめにやってきたのである。
そして現在、両家の交流は5代目になっても続いている。

(記者:関根)

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