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ザ・戊辰研マガジン

2019年04月号 vol.18

【先祖たちの戊辰戦争・四】青森

2019年04月05日 22:16 by tange
2019年04月05日 22:16 by tange

 明治4年(1871)7月の廃藩置県によって、本州最北の地にも弘前県をはじめとして五県が発足した。同年9月、弘前、黒石、斗南、七戸、八戸県の五県と北海道渡島半島の館県が合併し、新しい県が生まれた。
 その合併が成った直後、初代県大参事として野田豁通(ひろみち)が着任した。彼が最初に実行したことは、多くの反対を押し切って県庁を青森に置くことであった。合併した六県のうち最も経済力に富み、津軽藩の本拠地でもあった弘前を県庁所在地にしなかったのである。それは、弘前の位置が合併した諸県に対して地理的に偏っていたことや、今後、物流の中心となる青森港を重視した結果であった。
 県庁は津軽藩の「御仮屋」に設定され、それがそのまま現在の青森県庁の場所となっている。「御仮屋」とは津軽藩の北方警備の陣屋であり、弘前の本城を「屋形」と呼んでいたことから、その呼称になったという。
 かくして青森県が誕生し、野田豁通はその生みの親となった。


現在の青森県庁舎(御仮屋・野田豁通屋敷の跡)

 明治5年4月、私の曾祖母・鈴木光子は、斗南の子供たちを飢餓から救い勉学の機会を与えようとする野田豁通の招きをありがたく受け、付き添いの伯父伯母と共に、途中三泊して野田の屋敷を訪れた。その時、光子が見た屋敷の様子が、回想記に記されている。

 『御屋敷は元津軽藩の陣屋で、大広間が県庁となり、殿様の御居間が県令の官邸、又、奥御殿が野田大参事の御屋敷となって、その立派宏大なのに一同度肝を抜かれました。お台所から取次を願いますと、書生が現れて、玄関へと廻され、其の案内で座敷へと通されました。其の書生の言葉は会津訛りで、先ず懐かしい一つであります。座敷を見ますと、未だ見た事もない立派な調度ばかり、皆々二度びっくり』

 以前から私は、回想記に記された屋敷がどういうものだったのかを知りたいと思っていた。都立中央図書館で、青森県史から御仮屋鳥瞰図というものをやっと見つけた。その全体に靄のかかったようで具体的な姿がはっきりとしない絵を見て、かなり堅固な平城で規模も相当あるようだと、かってに理解していた。その姿は、曾祖母の記述にもよく合っていると感じた。
 しかし、それ以上の資料が手に入らなかったので、県庁となった大広間をはじめとした各部屋の様子や、さらに光子が起居していたところなどは全く不明であった。


県庁舎敷地内に残る「御仮屋の由来」碑

 師走の少し雪降る日、県庁の県民生活文化課を訪ね来意をつげると、県史編さんグループのN氏を紹介された。突然の訪問にもかかわらず、N氏は大変親切に対応してくれた。
「御仮屋の配置図とか平面図は、残っていないのですか?」という私の問いに、あっさりと「残っていますよ。今コピーをしてきます」と言いながら席を外された。私は、どきどきしてコピーの出来上がるのを待っていた。曾祖母・光子の、この青森で生きていた様の一端が垣間見れる瞬間である。 N氏が戻ってこられて、その敷地全体の配置と各棟の部屋の構成が同時に表現されている一枚の図面を手渡してくれた。
 そこには、敷地の南側に一棟、西側に長屋風の一棟のふた棟と簡単な付属棟が、描かれているだけであった。それらは、現在の県庁の敷地とほぼ同じ大きさの東西71.5間(128M)、南北68間(122M)という広大な土地にあって、庁舎として実に小規模に思えるものであった。
 
 光子の回想記に戻れば、南棟が県庁と県令の官邸、西棟が大参事の屋敷ということであろう。建築の図面を見ることには慣れていたので、県庁であった大広間を見つけ、その広さを探っていた。大広間は、主玄関に接して在り、次の間を入れても30畳ほどの広さしかない。現在の小規模マンション一戸分の広さである。
 たくさんの机が並べられ、そこの間を給仕として駆けずり回っている柴五郎の姿を思い浮かべていたが、そんなことをする必要はなかったようだ。私が建物の広さのことを口にすると、「発足当時の県庁では、仕事はそんなに無かったのです。これでも広すぎ、使い勝手が悪いとされていたようです」と返ってきた。
 西棟には、一室約12畳の部屋が背中合わせになって三組、計6室あり、一番奥に野田大参事が起居していたと思われる4室がある。全ての部屋は、建屋の四周を巡る縁側で結ばれている。居住空間として充分な広さが確保され、しかも全部屋に縁側を介して自然光が入るようになっていた。

 12歳の光子は、家族と離れ一人で野田の屋敷に暮らしていたわけだが、決してつらい生活を送っていたのではないと思う。その回想記によれば、野田も奥方も優しく接してくれていたようであるし、同郷の柴五郎からは時々会津弁で声を掛けられていた。日常の勤めも、手習い、針仕事、茶道具の掃除、来客へのお茶出し等をこえるものではなかった。起居していた住環境も、このたび入手した資料を見る限りかなり良かったようだ。
 さらに、青森に来て三ヵ月が過ぎた7月6日の夜、光子は‘ねぶた祭り’を見物している。種々の形の‘ねぶた’を載せた山車に大変びっくりし、その前後を往く化人(ばけと)の様子が面白く楽しかったと、初めて見る祭りについて回想記に記している。故郷会津を追われ艱難辛苦の日々ばかりだった少女の心に、笑い楽しむ気持ちがやっと戻ったのだ。


現在の青森ねぶた

 ただし、光子の女書生としての生活は長続きしなかった。明治5年7月、野田が青森県大参事の職を辞し、東京に戻ることになったからである。そのため光子は、再び斗南の母のもとへ帰った。 
 8歳で遭遇した会津戊辰戦争から悲しくつらいことばかりだった光子にとって、この青森での日々は、つかの間の安らぎとなった。

 N氏へ心からの感謝の気持ちを述べ、県庁を後にした。県庁から5分ほど北へ歩くと、海が望める公園に出る。
 夕暮が迫っていた。冷たい風をこらえながら湾の方へ目を向けると、薄いグレーのシルエットになった夏泊半島が見えていた。
 ここ青森で安らぎを得た光子だったが、それでも夕暮時には時々屋敷を抜け出し、海を見ていたのではないだろうか。陸奥湾の向こうに横たわる下北に暮らす母、妹そして伯母を想い、涙しながら――。
 私は、そんな空想を膨らませながら、いつまでも暮れなずむ海を見つめていた。


青森港公園から海を望む


(平成23年12月、鈴木 晋)

(次回は、曾祖母・光子らが斗南から会津若松へ帰還する時に利用した北上川水運の盛岡と石巻、それぞれの舟着場についてです)

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