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桜宝寿のいろいろ感想、「西郷どん」第42回「両雄激突」第43回「東京よ、さらば」京都に西郷邸跡碑

2019年03月02日 20:08 by katsukaisyu
2019年03月02日 20:08 by katsukaisyu

「西郷どん」第42回「両雄激突」第43回「東京よ、さらば」京都に西郷邸跡碑  

 大久保との別れ  

 明治4年、木戸や大久保、伊藤ら岩倉使節団が欧米各国を訪問している1年半の 間に、三条や西郷、江藤、板垣、大隈らをとする明治政府は、学制改革・太陽暦 採用・徴兵令布告・地租改正・司法制度の整備・断髪令・キリスト教の解禁といっ た、改革を次々と行いました。この間に施行された制度、我々が明治改革と言わ れたら、思い浮かぶものが結構あります。

  明治6年に行われた太陽暦の採用について、おもしろい話を聞いたことがありま す。これまでは太陰暦だったため、1月が29~30日だったので、2、3年に1度、 13か月ある閏年がありました。明治6年がそれにあたっていたようで、財政難の 明治政府、大蔵卿だった大隈重信は太陽暦に突然の変更を宣言します。太陽暦だ と12か月なので、公務員に1か月分の給料を払わなくて済むというわけです。そ ういう契機で、我らの生活に絶大な影響を及ぼした暦の大改革が、明治6年に行 われたのだとか。外国によく行く筆者としては、変えといてくれて、よかったで すが。

  欧米から帰国した大久保は「富国強兵」を目指し、日本の産業革命を早くせねば と、えらく焦っています。そう簡単にはいきませんが、このあたりの大久保の心 情に焦点をあてて、もう少し詳しくドラマ化してくれたら、わかりやすいのです がねぇ。ついに、長年の盟友、西郷と大久保の決裂です。別に、決裂しなくても いいじゃないかと筆者などは思います。西郷を東京に引っ張り出した大久保です が、自分がかえってきたから、鹿児島に戻るかと話し合えばいいのでは。

  征韓論の扱いが、従来のものと変わってきています。よく言われるのが、西郷や板垣は「征韓論に敗れて、 下野した」というものです。近年では、大久保や岩倉が帰国するまでに、西郷が 韓半島に交渉に行くことが閣議決定していたにも関わらず、明治天皇の名のもと に、それをひっくり返したので、閣議決定はなんだったのかと、西郷が憤ったか らだと変わってきたとのことです。

  西郷は鹿児島に帰っていきました。これから段々、哀しいことに物語が進んでいきますねぇ。 大久保と西郷が涙の別れをしていましたが、本人たちもこれが今生の別れになる とは思ってもいなかったでしょうし、まさか、この後、対峙することになろうと は考えてはいなかったことでしょう。

 

 11月、同志社女子大学の近くに西郷隆盛寓居跡碑が建立されました。この辺り、 相国寺の七重塔があったことから、塔之段という地名が残り、幕末期には西郷の 寓居があったと伝えられています。女子大や女子高ができたこともあって、正確 にはどこが寓居だったかは不明とのことですが、地名が残されています。

  建碑場所は京阪出町柳駅から今出川通りを西へ徒歩5分、円覚寺の裏(西側)駐 車場です。今出川通りからだと、同志社女子高との境の道を北へ少し入った道路 沿いにあります。

  偶然にも、円覚寺は湯川秀樹博士が子供のころ、寓居されていたそうで、顕彰さ れています。除幕式には、ご高齢の息子さんが出席されていました。湯川博士は 京都大学を卒業後、20代では大阪大学の講師をされていました。ノーベル物理学 賞の対象となった、「中間子理論」の原稿を書いたのは、阪大時代でした。原稿 のコピーが大阪肥後橋駅近くの科学館に展示されています。

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