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軍人、西郷隆盛像

2019年03月05日 20:58 by date

 

鹿児島市城山の西郷隆盛像

 1960年代の日本の歌謡曲のジャンルに青春歌謡という範疇があった、終戦直後に生まれた団塊の世代が消費経済の高度成長に伴い、レコードや蓄音機の発達に沿うかのようにこぞって若い歌手らの青春歌謡に飛びついた。その一曲に歌手の梶光夫さんが歌った「青春の城下町」という楽曲がある。その歌詞の一部を抜粋すれば「流れる雲よー、城山にー、登ればみぇる、君のいえー」となる。まるでストーカー行為容認の歌詞のようであるが、この歌詞の舞台となったのは鹿児島県鹿児島市の城山という小高い山である。小高い山といっても、下校時の高校生がひょぃと登れるような山ではない。
 私は近年に妻を助手席に乗せて車で登った、カーブが連続する坂道を蛇行しながら登ったわけだが、もしこの山を下校時の高校生のアベックが歩いて登ったら「不純異性交遊」ではないかと、保守的な鹿児島市民は高校生のアベックに後ろ指を指して非難中傷するであろう。(個人の感想です)

 薩摩の軍人である西郷隆盛は、西南戦争時にここ城山の山中にて自刃したという。その後の西郷隆盛の首はいまだに発見されていない。敵の手(明治新政府)には渡さないという薩摩隼人の意地と薩摩人の見識であろう、何処の世界でも戦争時には味方の兵士の首は敵には渡さないのが当然(常識である)。会津戦争時でも鉄砲相手に薙刀で向かった会津藩娘子隊の中野竹子であったが、無念にも打ち取られたときには会津藩士が麗髪を払いながらも首を落とし持ち帰っている。どれ程のつらい悲しみだったであろうか。
 軍人西郷隆盛をたたえる銅像は、城山のふもとの鹿児島市立美術館の庭園の築山の中に鎮座する。その築山は立ち入り禁止の区域なので一般人は立ち入ることができない、そのために観光客や市民は、国道を挟んだ中央公民館の駐車場に設けられた撮影スポットから見物あるいは撮影することになる。

 西郷隆盛像をバックに「會」の旗を掲げる観光客

 私ら夫婦が中央公園の駐車場に立ち寄った時に、撮影台に会津藩の隊旗「會」の旗を持って記念写真を撮る人に会った、その人は腰に大小を束ねず背中には火縄銃を背負わず、自決用の短刀も持たずの丸腰状態であった。
 丸腰の人が薩摩(鹿児島)で「會」の旗を掲げる日が来るとは誰が思ったであろうか。よほど度胸のある人に違いない。その人の隣には西郷隆盛が飼っていたという「ツン」という名の犬の模型が立っていた。ここで浴衣姿の恰幅のいい薩摩人が立てば、それはまさしく上野の山の西郷さんであろう。
 城山に立つ西郷隆盛像は上野の山の西郷像に反発しての、あるいは作り直しという意味での銅像ではないかと思える。
 明治10年の西南戦争で賊徒になった西郷隆盛であったが、明治22年の大日本帝国憲法発布による大赦で逆賊の罪を許された。そのあとに西郷隆盛を顕彰しようという人達により銅像建立となったが、それらに反発した人が当初の宮城前(皇居)建立に反対し、紆余曲折があったのちに上野の山に決まった。上野の山はかつて上野戦争時に、西郷らの薩摩軍が攻め立てた山でもある。その薩摩軍が攻めて殺略した彰義隊の遺体を火葬にした場所こそが、西郷隆盛像の後ろである。つまり西郷隆盛像は彰義隊の墓に背を向け尻を向けて建っているのである。
 こんか無礼なことがあろうか。
彰義隊の墓に尻を向ける銅像なんて誰が望むのであろうか。
 しかも上野の山の西郷隆盛は浴衣姿である、ものの本によれば兎狩りでの服装だそうである。たとえ兎狩りであろうと武士たちにとっては戦場であり、武勲の誉れ高揚の場でもある。
誰が浴衣姿で出陣するであろうか、しかも一本刀である。恥辱ものである。しかしモノの本によれば一切の名利を捨てて狩りに乗じた飾りのない本来の姿だという。
 明治31年12月の除幕式に出席した西郷隆盛の妻の糸さんは、「うちの人はこのような人じゃありません」と発したそうな。これでは銅像建立に奔走した人や、薩摩藩の身内の人は浮かばれないであろう。当人の西郷隆盛も草葉の陰でさぞかしオメオメと泣いているだろう。
 そのような上野の山の西郷隆盛像であった。
そして鹿児島城山の西郷像はそれらに反して見事なまでに堂々とそびえ立っている。
 明治20年から過ぎること昭和12年(1937年)に完成した城山の西郷像は、身長5m20㎝、顔の長さ90㎝という堂々とした体格である。この銅像の寸法は明治6年(1873年)に千葉県習志野で行われた日本陸軍の初演習時の姿であり、その時分に着用していた軍服が西郷家に残って
いたことにより判明し、実物に近い銅像が出来たという。
 しかし西郷隆盛の実物の写真は1枚も残っておらず、その銅像の顔は西郷隆盛の孫である西郷隆治氏と、たまたま銅像製作中に鹿児島を訪れていた山形県議会議員の石洋宏太郎氏を組み合わせて顔を作ったという。
サーベルを持ち堂々と故郷城山に建つ西郷隆盛蔵は、名誉回復を図り、故郷に錦を飾っているような姿である。
 「敬天愛人」天を敬い人を愛する西郷隆盛、ここ鹿児島城山で未来永劫に薩摩を見守ってほしいものだ。

 

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