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じいじとばあばの東北旅行 史跡めぐり仙台編⑤(清浄光院、保春院)

2019年03月02日 20:11 by tama1

幕末の史跡を追っての仙台編も最後になりました。

本日、最初に訪れたのは幕末 期に仙台藩で結成された西洋式軍隊隊長星恂太郎が眠る「清浄光院」です。

「清浄光院」

輪王寺からタクシ-で東照宮に向かい、手前に位置する「清浄院」前で下車しま した。

仙台市青葉区宮町5丁目1-11「清浄光院」

由緒・由来を読んでみますと、清浄光院は阿弥陀如来を本尊とし、仙台三回向寺 の一つで、その発祥地とあります。

1676(寛文16)年仙岳院3世亮栄師の代に、4代藩主伊達綱村公が念仏回向道場として お堂を建立したもので、以来念仏を欠かさず、今も5月13~15日の三日間は特に大回向 を執行し、大勢の参拝客で賑わうそうです。

山門をくぐってすぐ、左手に「南無阿弥陀仏」「星恂太郎碑」と深く彫られた文 字がひと際目立つ墓所がありました。

「額兵隊」というのは、鳥羽伏見の戦い後、反薩長の立場であった仙台藩は危機 感を覚え、戦争準備と装備の近代化の必要さを痛感し、洋式部隊の編成に着手。 西洋砲術や歩兵術を学んでいた星恂太郎を横浜より呼び戻して、慶応4年(1868)4月に額兵隊を結成しています。

画像はお借りしていますが、額兵隊は恂太郎が横浜で仕入れた元込め式のスナイドル銃を装備した最新鋭の部隊で、隊士はイギリス式訓練を受け、イギリス軍に倣った赤黒 リバ-シブルのラシャ製の軍服を着用したことで知られています。

ただ、戊辰戦争では、東北地方での戦闘を前に仙台藩が奥羽越列藩同盟の義を破って降伏したため活躍の場は失われてしまいました。しかしこれに隊長の星恂太郎たちは激怒 して反乱を起こしました。藩主伊達慶邦らの説得により戦端を開くのは諦めています。

しかし、額兵隊の存在は恭順の意を示したい仙台藩にとって邪魔であり、星恂太郎を暗殺するという風評が立ち、動揺した額兵隊の隊士の離脱が相次ぎ、遂には半減してしまうに至った。 松島湾に停泊していた旧幕府艦隊の榎本武揚は蝦夷地に共に進もうと星を説得。 遂に、星、二関源治、荒井平之進以下の250名は脱藩し、船に乗ることになった。 榎本艦隊の出航準備をしていた衝撃隊の細谷十太夫らと共に蝦夷地に向かい、額兵隊は木古内で勇戦。最後まで戦い抜いた。 

Wikiより抜粋。

星恂太郎 天保11年(1840)10月4日、仙台東照宮宮司星道栄の息子として生まれ、台所人小島友治の養子となり、孝治と改名するが、料理人になるのを嫌って離縁し、生家に戻って武芸を 修めたという。その性格は激しく直情型で、この時代、尊王攘夷論を唱え、開国論を唱えていた藩の家老但木土佐などを国賊とみなし斬ろうとした。 しかし同じく開国派の大槻盤渓の暗殺を図った際に、逆に盤渓から世界情勢への無知を諭されて改心。自分の無知さを恥じて、脱藩して江戸に出たという・・・・。 その後、額兵隊を率いて函館戦争に赴くまでの波乱万丈の生涯は誠に興味深いもので、下記の本に詳しいそうですが、如何せんチト高い!

びっくり ここまで、幕末の仙台史跡(悲劇のヒーロ-たち)を巡ってきましたが、トリを 飾るのはやはり、この人、仙台藩参謀として奥羽列藩同盟の戦略立案にあたり、北方政権の樹立 を叫んだ「玉虫左大夫」でしょう。その玉虫左大夫の墓所「保春院」にやってきました。

「少林山保春院」仙台市若林区保春院前丁50

保春院とは、戦国大名最上義光の妹で、伊達政宗の母の出家後の院号のことで、政宗は寛永12年(1635)、母の十三回忌にあたり菩提を弔うため、若林城付近に 臨済宗少林山保春院を建立しました。保春院は宝暦2年(1757)に火災で焼失したが、政宗自ら作った母の位牌が残り、再建された保春院に安置されているそうです。

玉虫左大夫は万延元年(1860)に日米通商条約締結のため、幕府使節新見豊前守 の随員として渡米し、帰国後大番士に登用され、航米日録等の書を著している。 また養賢堂指南統取に推挙された。戊辰の役に奥羽列藩同盟した際に軍務局副頭取に任ぜられ会津の救済に奔走するも、藩論一変し、その犠牲となり明治2年4月9日、同志と ともに切腹を申し渡され自刃。享年47歳当保春院に葬られたとある。

 仙台市 「玉虫左大夫墓」 本堂に向かって左側に墓地が広がり、奥のほうに玉虫家の墓が見つかりました。 一族の墓群の中に「玉虫拙斎之墓」があります。幼名勇八、後左大夫。拙斎は号。

左大夫は文政6年(1823)百五十石の仙台藩士の家に生まれ、二歳で父を亡くし、 兄勇蔵に養われています。仙台藩校養賢堂に入るや頭角を現し、十三歳の時に同じ仙台藩士荒井東吾の養子になり、東吾の娘虎婦(こふ)と結婚。虎婦が病没したため、虎婦の妹に家督を譲り、脱藩して江戸に出奔しています。24歳の時だそうです。このままでは一介の素浪人に終わってしまうところを、仙台藩校養賢堂学頭の大槻盤渓がその才を惜しみ、大学頭林復斎に紹介し、林家の下僕として住み込んだ。やがて塾長として師の代講を務めるまでになった。 ペリ-の艦隊が来航した時、大学頭が幕府の応接役として外交事務に携わったことから左大夫も外国事情に強い関心を抱くようになった。その後、林塾で修行を終えた左大夫は、晴れて江戸の仙台藩校順造館に復職する・・・以降略 星亮一先生著「奥羽越列藩同盟」より抜粋。

その後、奥羽越列藩同盟成立や北方政権構想など列藩同盟の戦争戦略論を起てた左大夫の生涯については、上記左、星亮一先生著「奥羽越列藩同盟」や戊辰研の歴史家 たちの共著「朝敵と呼ばれようとも」の中、寒河江昌英氏が書いた幕末東北を一つにまとめた悲運の国際人、玉虫左大夫編に詳しく書かれています。興味ある方必読の書だと私は思います。

これで、幕末(特に戊辰戦争の足跡)史跡めぐり「仙台編」は終わりますが、気付いて みるに、全てが悲劇、悲運のヒ-ロ-たちばかりです。8.18の政変や禁門の変以後の 長州藩や戊辰戦争での奥羽越列藩同盟軍に新選組など敗者のほうに心惹かれるのはまさに日本人の判官びいきが如実に表れていると言えましょう。

次回からは、山形県酒田市、鶴岡市に移ります。

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