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2019年2月 今月号の表紙

2019年02月05日 23:24 by norippe

 戊辰戦争研究会の新年会が新橋で行われました。 いわき市からの高速バスが東京駅直通だったので、東京駅北口に降り立った私は、時間潰しのため、東京駅から近い皇居の坂下門を訪ねてみました。


坂下門


 この坂下門は昔、皇居一般参賀で父親と一緒に通った事がありました。
 門をくぐると右手に宮内庁、左には一般参賀が行われる宮中殿があります。通常、一般参賀は二重橋側から入ってこの坂下門を通って退出するようになっています。
 坂下門は幕末、桜田門外の変と同じく襲撃事件が起きた場所でした。坂下門外の変と言われています。
桜田門外の変が起きた後、老中安藤信正は井伊直弼の開国路線を継承し、公武合体政策による和宮降嫁を主導しました。和宮を人質に孝明天皇に揺さぶりをかけるのではと、尊王攘夷派から反感をかったのです。
 文久2年1月15日朝(1862年2月13日)、屋敷を出た安藤信正の駕籠行列は直訴により止められ、水戸浪士ら6人が包囲、一発の銃声を合図に斬り合いが始まりました。安藤信正上屋敷の場所は今の皇居前広場に位置し、幕閣重要ポストが屋敷を構えるところです。本丸への通用門である坂下門へは目と鼻の先、約50メートル距離でした。桜田門外の変の後、要人登城の際の警護は厳しくなっており、50人の供廻りが6人を斬り捨てました。しかし安藤信正は背中に傷を負い、命からがら坂下門内へと逃れたのです。
 その日の午後には包帯姿でイギリス公使ラザフォード・オールコックと会見し、オールコックは「負傷しながらも職務を続け、幕府の代表として意地を見せる安藤信正の姿に感嘆した」と日記に書いています。 政治家・文官として立派な態度でしたが、幕府内部の反安藤派が安藤の逃走行為に「敵に背中を見せ逃げるとは何事だ!」と言いがかりを付けられ、この年の4月に幕閣からの引退を余儀なくされたのです。江戸幕府は自らの手で優秀な人材を失い、幕府崩壊への道を早めてしまうのです。

 ここに一枚の写真があります。坂下門は、桜田門や大手門のように高麗門と渡櫓からなる枡形門の形状をしていましたが、明治6年(1873年)後方の蓮池巽三重櫓と連なる箪笥多聞に貯蔵した砲弾火薬が爆発炎上し、櫓と多聞は焼失、石垣のみが残されました。坂下門渡櫓を90度向きを変えて移設したのが現在の坂下門なのです。

 
明治の頃の坂下門

 また、この坂下門は昭和のクーデター「二・二六事件」の舞台になった場所でもあります。 時代の転換点に遭遇した坂下門、重みが感じられますね。

 私が撮影した坂下門の写真手前に咲くのは福寿草。 実際ここに福寿草が咲いている訳ではなく、皇居前広場に花があったらいいのではと思い、写真を合成してみました。「春の使者」とも呼ばわれる福寿草、江戸時代から栽培され、園芸品種も多くあります。花言葉は「永久の幸福」今年は新しい天皇が誕生し、どんな世の中が来るのか心配もありますが、永久に幸福をもたらす時代になって欲しいと願う次第であります。

(記者:関根)

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