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桜宝寿のいろいろ感想、「西郷どん」第38回「傷だらけの維新」第39回「父、西郷隆盛」

2019年01月31日 18:43 by katsukaisyu
2019年01月31日 18:43 by katsukaisyu

 「ありがとさげもした」

 戊申の戦さは東軍、政府軍ともに、厳しい状況となりました。侍は武人なので、戦さに行きたいっていうのは、あるのでしょうねぇ。

戊辰戦争までは徴兵制ではないので、やる気のある武士たちの戦いでした。明治以後はやる気があろうが、なかろうが、国が決めたらいやおうなく戦場に駆り出され、参加の意志を選択する余地はないですが。国民国家というのはつらいものです。

 北陸戦争では、西郷家の次男、吉二郎が壮絶に戦死しました。戦さは悲惨なものだと吉二郎が体現してくれました。自分の起こした戦争で弟を亡くしたことは吉之助にとって、痛恨のできごとだったでしょう。ついさっきまで、一緒にいたのが、突然、死んでしまった喪失感は大きいです。しかし、西郷家はこれからもっと、えらいことになります。

 吉之助は薩摩に帰り、髷(まげ)を切って、戊辰戦争で亡くなった兵たちの遺族を慰問していました。贖罪(しょくざい)の日々ですね。

 斉彬からもらったCangoxima(鹿児島)つきのハンカチを大久保に託し、吉之助は薩摩に帰ってきました。ドラマではあっという間に戊辰戦争が終結し、新政府は東京に移りました。大久保は慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦い直後に、大坂へ首都機能を移そうという大坂遷都論を建白しますが、せっかく朝廷に主権が戻ったのにと、公家さんたちに大反対され、かないませんでした。大坂が首都に一番近づいた瞬間だったのですが。

  その影響から、同年3月の明治帝の大坂行幸が実現され、小松・大久保は明治帝を京から離すことに成功します。明治帝は大坂・津村別院(北御堂)に44日間滞在されますが、小松は事前に北御堂に下見に来たことが記録に残されています。さすがに入念に準備したようです。世の中が徳川家から天皇家へ大幅に変わったことへの一大デモストレーションでした。

さて、明治編はナレーターの視点が変わりましたね。なるほど、西田さんは息子、菊次郎の役を演じ、その菊次郎から見た父、吉之助を語るという具合に新展開ということになりました。タイトルの画像も変わり、鹿児島の西郷家の家も立派になりました。

  薩摩犬つんが登場しました。上野の西郷の銅像で、足元にいるのがつんです。うさぎ狩りがうまい雌犬だったとか。 新政府が始まったものの、職と誇りを失った士族の不満は収まらず、誰もがこの国のいく末を心配しています。フランス帰りの弟慎吾が、大久保・岩倉の意を受けて、吉之助の上京を即すように頼まれていました。民のためにと、再び立ち上がる吉之助です。運命が再び回り始めました。

  新政府といっても人材は、「徴士」と呼ばれる藩から選抜された面々です。薩摩からは大久保や小松、五代、長州からは木戸や伊藤といった人々が中央政府に出仕しました。明治初年、東京が首都になり、東京組と大阪組に分かれました。東京へ移ったのが、大久保・西郷・木戸・板垣・江藤・大隈らで、大阪に来たのが小松・五代・後藤・陸奥らです。五代友厚もこの慶応4年1月時点で徴士となり、来阪しました。造幣局の機械輸入、堺事件などの外交問題の解決、大阪の開市、居留地の設置などなど、活躍していきました。朝ドラ「あさが来た」が夕方に再放送されるとのことで、そちらで再びディーン・フジオカさんの演じる五代の雄姿が見れそうです。

  写真は、幕末期に壺屋と言われた商家のあった跡地にできたホテルリソル京都河原町三条店です。

 ここは後藤象二郎の寓居跡で、以前は立て札があったのみだったのですが、近年、石碑も建ち、ホテルの一室がギャラリーとして、後藤の業績や史跡を展示する施設が造られています。無料で入れますし、写真も撮れるので、お近くにお越しの節は、ぜひ、お立ち寄りください。こうやって、幕末の史跡が立派に顕彰されるのは、ありがたいことです。元はこのこま札が建てられていました。入り口には石碑と銘板が設置されています。

  内部はギャラリーになっていて、ありがたいことに写真OKです。龍馬や後藤が長崎で撮った写真館の台もありました。龍馬と共に写真が撮れますよ。   高瀬川周辺のジオラマや大政奉還の資料も展示されています。

  後藤といえば大政奉還推進ですが、もう一つの功績がこのイラストにある慶応4年の2月に京都縄手通りで起こったパークス襲撃を阻止した件です。

 後藤はパークスを護衛していて、薩摩の中井弘とともにパークスを守りました。襲撃側の林田衛太郎の刀が東山にある霊明神社に残り、京都国立博物館で後藤の刀が展示された際、共に展示されました。後藤はこの功により、英国女王ヴィクトリアから感謝状を贈られています。

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