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2019年1月号 vol.15

戊辰研・大阪集会、「高槻探訪」

2019年01月02日 08:29 by minnycat
2019年01月02日 08:29 by minnycat

12月16日(日)に戊辰研の大阪集会があり高槻へ史跡探訪して来ました。

 JR高槻市駅を出発、陸橋にある山崎の合戦の羽柴秀吉本陣跡~の説明板を読み、芥川商店街から西国街道へと進みます。江戸時代、この地は高槻城の城下町として発展し、京都と西宮を結ぶこの西国街道は東海道と中国路を結ぶ近道として、 参勤交代や多くの旅人が行き来しました。芥川宿は西へ約400mの芥川橋までが宿場であったそうで今でもその面影を残す家が多く残っています。

 突当りの辻に「芥川仇討の辻」がありました。 300年程前、石見国吉永城下で二人の若侍が美しい稚児の争奪を巡る争いで邪推からもう一人の藩士を江戸表で殺してしまった。 その子息助三郎という若者は京で剣客につき剣術を学び諸国を遍歴すること二年半。 敵が芥川宿の旅籠に入る姿を見、宿を立ち去るところを不倶戴天の敵を討ち取り本懐を遂げた。 討たれた敵は「自分は討たれて当然であると言う書状」を懐に忍ばせていたという。 武士道のモラルを貫いた美談として語られ続けています。

芥川一里塚と旧芥川宿

~福寿舎(ふくじゅや)

 高槻城址~平安時代中期、近藤忠範が築いた。後年、たびたび城主が代わるが、1573年にキリシタン大名で知られる高山右近が城内に町家をとりこんだ堅固な城郭を築く。 明治7(1874)年の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、城郭の石垣はほとんどが鉄道敷設資材として使用されてしまうが、「しろあと歴史館」にある3個だけ残っている。

野見神社~

高山右近高槻天主教会~

元陸軍工兵隊営門跡~ 元工兵第四聯隊(中部第29部隊)の営門と門衛所、後、改築されて学校、公園になっている 

しろあと歴史館

可愛い展示物がたくさんありました。

高山右近像です。

-----------------------以下、ウイッキペディアから引用します。

高山 右近は、戦国時代から江戸時代初期のキリシタン大名として、また、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られる。 戦国末期の高槻城主でキリシタン大名でもあった右近は、天文21(1552)年頃に、摂津高山(現豊能郡豊野町)生まれたとされている。  永禄7(1564)年、父の居城沢城(奈良県宇陀郡榛原町)で洗礼をうける。  元亀4(1573)年、高槻城主となる。 天正2(1574)年、右近は城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の伝道に努める。  天正10(1582)年の本能寺の変後の山崎の合戦では、秀吉に仕え功績を挙げる。  天正13(1585)年、右近は明石へ移封され、高槻城主であったのは12年間でした。  その後、秀吉がバテレン追放令を発するが、右近は改宗を拒否し領地を没収される。 慶長19(1614)年、 禁教令だした徳川幕府により国外追放処分となり、マニラ到着後約40日後に熱病で没する。 ---------------------------------------------------------------

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