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武士道の精髄を尽くした二本松藩

2019年01月05日 11:34 by norippe

 人は物事を選択する時、自分の不利になる事は選ばないものだが、ここで話す二本松藩は違っていた。長い物には巻かれろ的な諸藩がある中、二本松藩は武士道を貫いたのだ。たとえ二本松が焦土化することが分かっていても、武士としての誇りや気概で戦う事を選んだのが二本松藩なのである。


二本松城(霞が城)

 鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、江戸制圧に兵を向けると同時に会津藩討伐に動き出した。奥羽諸藩は、会津藩救済のために同盟して嘆願書を作成し、新政府が東北諸藩鎮撫のために派遣していた奥羽鎮撫総督府に提出したのだ。しかし下参謀の世良修蔵がこの嘆願に断固反対したのである。「会津藩主・松平容保は天にも地にも容られない罪人であり、即刻討ち入るべし」その嘆願書を戻すとともに、仙台藩・米沢藩に対し、会津藩討伐の軍を進撃させるよう命令したのだ。世良は嘆願書を提出する仙台藩の重臣に対し、侮蔑的叱責をするとともに主君を辱めるような言動をとった。武士の面目を潰され、主君まで辱めを受けた仙台藩士は、堪忍袋の緒が切れ福島宿にいた世良修蔵を暗殺してしまうのである。会津藩の救済を求めるために結成された奥羽諸藩の同盟であったが、この世良暗殺事件がこの同盟の結成主旨を変えることになり、東日本全土を巻き込んだ大戦争への引き金を引いてしまうのである。

 二本松藩はそれまで、仙台藩・米沢藩と協議を重ね、会津藩の新政府軍への謝罪降伏をもって平和解決への道を探っていたのだが、この事件が新政府への実質的な宣戦布告となり、会津藩救済のための同盟は新政府軍への攻守同盟となってしまったのだ。 奥羽越列藩同盟の盟約書は8カ条からなり、その二つ目には「一、同舟海を渡るごとく信をもって居し義をもって動くべき事。」とある。また仙台藩が作成した東北諸藩の行動計画の中には、「二本松藩は全兵力で本道より先鋒で進軍」とされていたのだ。奥羽の南に位置する二本松藩にとっては、非常に過酷な内容であった。

 奥州の玄関口白河にある小峰城は、二本松藩丹羽家2代当主・丹羽長重公が築いた総石垣造り城で東北地方での戊辰戦争における戦略的重要拠点であった。古来より白河は関所であり、新政府軍にとっては、この地を得ずして会津を始めとする奥州に攻め入ることは難しく、また奥羽側の軍にとっては、この拠点を確保すれば奥羽全体への影響を左右することができ、白河は戦略的な重要地として両軍争奪の的になったのだ。

 約100日間、白河争奪戦が繰り広げられた。長引く白河の戦いの間、新政府軍の別動隊は棚倉城、磐城平城と次々に城を落とし進軍を続けた。
 この状況を受け同盟各藩は、秋田藩を皮切りに、戦況が思わしくないことを察知した本庄・天童などの諸藩が奥羽越列藩同盟から離脱していったのだ。
また、小野新町の戦いにおいて、二本松藩勢は三春藩が同盟を離脱したとは知らずに三春藩に救援を求めたのだが、逆に三春藩は新政府軍を道案内してこれを包囲し、結果として二本松勢は多くの戦死者を出し敗走するに至った。新政府軍は三春を発して一路二本松城下を目指した。このとき、白河の戦いに出兵していた二本松藩の主力部隊は、郡山の小原田や笹川などにおり、安達郡内には全くいない状況であった。二本松藩は全軍に対し城下防衛のため引き上げを命じたが、各隊は各地に駐屯する新政府軍を避けての移動のため帰藩に難儀し、2日後の二本松城下の戦いにすら遂に間に合わない部隊もあったのだ。二本松藩の戦死者は増え続け戦況は厳しくなる一方。そして新政府軍が二本松城下へ攻め入ることが目前となったのだ。

 慶應4(1868)年7月27日夜、二本松城中では老臣会議が開かれ、降伏か決戦かで激しい討議が繰り広げられた。一旦は新政府への恭順、降伏に決したのだが、家老の丹羽一学が議論を制し、次のように言ったと伝えられている。
 「三春藩信に背きて西軍を城中に引く。神人ともそれを怒る。我にして今、同じようなことをしたら、人これをなんというか。また、西軍に降って一時的に国家を全うしても、東北諸藩を敵にしたらいずれは亡ぼされる。すなわち、降伏しても亡び、しなくても亡びる。同じく亡びるなら、列藩の信を守って亡びよう」老臣会議の結果、二本松藩は新政府軍に降伏せず、徹底抗戦する決断をしたのだ。これは、老臣一同この戦いが勝つ見込みがほとんどないこと、そしてそれにより領内が焦土と化すことが分かりきった上での決断だった。会議では降伏論者も多くいたのだが、結局は二本松武士としての誇りがそれをさせなかったのだ。
 将棋の戦いで例えるなら、取られた駒を相手が使うように、敵に恭順、降伏した場合、敵方の配下となり戦うのが戦国以来の常識である。関ヶ原の戦いで、石田三成方として布陣していながら徳川家康方に寝返った小早川秀秋が、石田三成の居城であった佐和山城を攻め落としたように、奥羽越列藩同盟諸藩でも新政府に恭順した秋田藩は庄内藩を、相馬中村藩は仙台藩を、そして三春藩は二本松藩を、新政府軍の部隊として攻めた。もし、二本松藩が新政府軍に恭順、降伏していたら、地理に明るい二本松藩は隣国会津藩討伐の先鋒となり出陣した可能性が十分あった。老臣たちは列藩同盟への信義、そして二本松武士の誇りにかけて、新政府軍の手足となることだけは避けたかったのかもしれない。
 一方、この決断は新政府軍も予想だにしていなかった。新政府軍の討伐の矛先はあくまでも会津藩・庄内藩であり、二本松藩には何の恨みも無く、ただその進攻の通り道であったにすぎなかったからだ。加えて、このとき既に奥羽越列藩同盟加盟藩が次々に恭順、降伏していた。それなのに兵力もままならず、ここまで多くの犠牲者を出しながらも、なぜ二本松藩だけが一向に刀を収めようとせず、藩一丸となって立ち向かってくるのか。ちなみに7月28日は二本松藩の降伏を待ち、新政府軍は進軍しなかったといわれている。
 この老臣会議では、もう一つ重要な決定をしていた。それは、藩主・丹羽長国公を逃がすということである。長国公は病床にあり、また嫡子がいなかったため何としても生きていただかなければならない事情があったのだ。二本松藩にとって丹羽家は藩そのものであったため、長国公にもし万が一のことがあった場合は、藩の存亡にかかわるからである。長国公は「城が総攻撃を受けようとしているこの時に、我一人が生きのびるのは何とも忍びない。病気で私の命も長くは無い。皆と一緒に城を枕に死ぬ。」と言って家臣を困らせたのだが、長国公の病床で泣きながらお願いする家臣の勧めに最後は従い、翌日米沢へ向け退城したのだ。


 慶應4(1868)年7月29日。朝霧の中、新政府軍は小浜と本宮の二方面から大挙して二本松に迫った。軍事総裁家老の丹羽丹波率いる主力部隊も遂に帰藩することができず、帰藩できた部隊も、休養する暇もなく各地で転戦してきた疲労困ぱいの兵ばかりであった。この藩の存亡の危機という非常時にもかかわらず、藩の兵力は不足し、老兵、少年兵、農兵も参加しての城下防衛をせざるを得ない状況であったのだ。怒涛の勢いで進軍する新政府軍を、小兵力の二本松藩は支えきれるはずもなく、守備していた城下防衛の重要地である供中口、大壇口は難なく破られ、あっという間に郭内、そして城内までの侵入を許すことになったのだ。
 城下戦においても、二本松藩と新政府軍との武器の差は圧倒的であり、銃砲の撃ち合いではまともに戦うことができない状況であったが、二本松藩兵はそのような状況下においても、城下防衛のために敵に接近して、槍や刀で必死に新政府軍に立ち向かったのだ。
 二本松藩史には薩摩軍の六番銃隊の隊長であった野津七次(のちの元帥陸軍大将・野津道貫)が語ったとされる、二本松藩士の青山助之丞と山岡栄治の戦いが記されている。「本宮から二本松城下へ進軍中、大壇口のある茶屋の陰に隠れていた2人の壮士が、突然我が隊に切り込んできて、たちどころに9人ほど斬り倒された。その壮烈な太刀風に圧倒され、全隊が退却したほどであった。2人の壮士は、最後には壮烈に斬り死を遂げた。」
 2人の壮士は大壇口で戦った少年たちの撤退を助けたとされ、「大壇口の二勇士」と称されているが、この他にも多くの二本松藩士が白兵戦で斬り込みをしたと伝えられている。自らの命をなげうってでも、敵の侵攻を食い止めようとした二本松藩士の戦いぶりは、後に新政府軍により伝えられることとなった。
 野津は、戊辰戦争の悲壮さを次の詠歌に残している。
 ~うつ人も うたるる人も 哀れなり 共にみくにの 民と思えば~


大壇口の二勇士の碑

 一方、二本松城内では、家老・丹羽一学、郡代見習・丹羽新十郎、小城代・服部久左衛門が自刃し、城を自焼したのだ。丹羽一学と丹羽新十郎は、藩を交戦に導いた主導者でもあった。また城の本丸でも、丹羽和左衛門、安部井又之丞の二人の老臣が自刃したのだ。和左衛門は新十郎の養父であり、和平論者であった。それぞれが藩を壊滅に追い込んだ責任を取ったものと思われる。そして二本松藩は降伏し城は落ちた。その10日後に会津藩が降伏したのである。

 二本松藩には「入れ年」という独特の制度があった。戊辰戦争における二本松の戦いでは、この制度と兵力不足の実情が重なりあい、多くの少年たちを戦場に赴かせたのだ。後にこの少年たちは、『二本松少年隊』と呼ばれることになる。
 大壇口の戦いでは、少年隊の悲劇を生んだ。大壇口に出陣した木村隊は、隊長の木村銃太郎、副隊長の二階堂衛守以外の25人は、全て12歳から17歳の少年たちで構成されていた。
 戦闘で隊長の木村は敵弾に打ち抜かれ、「この傷では到底お城には帰れぬ。わが首を取れ。」と副隊長の二階堂に伝え、二階堂は木村の首を切り落としたのだ。その瞬間、少年達は一斉に号泣したという。そして、少年たちは泣きながら木村の屍を埋め、城に戻り最後の抵抗をすべく引き揚げることになったのだ。 先頭は二階堂と岡山篤次郎(13歳)で、2人は木村の首を、それぞれ頭髪を片手につかんでささげ持ち、大隣寺付近の道を急いで歩いた。その途上、新政府軍と運悪く遭遇し、二階堂がまず死傷し、岡山も腹部に2発の弾丸を受け、その場に倒れてしまった。
 その後、城は焼け落ち戦闘的行為はあらかた終了し、大隣寺付近の戦場整理をしていた土佐藩士が岡山の姿を認め、襟元に書かれた文字「二本松藩士岡山篤次郎・十三歳」の『十三歳』に驚いたのだ。藩士たちは、まだ息のあった岡山を城下称念寺におかれた新政府軍の野戦病院に搬送した。土佐藩の小隊長・広田弘道は、死にひんしながらも、うわ言で「無念」「銃をくれ」などと発した岡山に心を動かされ、「この少年を引き取って養子にしたい。」と語ったと伝えられているが、岡山は絶命しそれは叶わなかった。
 岡山は出陣に当たり、初めから死ぬことを覚悟していたようだ。「母が屍を探すときに分かりやすいように」と、戦場で着ていた服や手拭いに至るまで、母に頼んで「二本松藩士岡山篤次郎・十三歳」と書いてもらっていたのだ。 大壇口では戦いに参加した少年25人のうち、数え年13歳の少年を含む8人の少年が戦死している。


大隣寺の入り口に建つ二階堂衛守と岡山篤次郎の碑

 負けることがわかっているのに「武士の本懐」と、同盟の信義を守って玉砕した二本松。会津のように薩摩長州に恨まれていたわけでもなく徳川に格別な恩義を感じる家でもなく、仙台や米沢のように列藩同盟を主導した立場でもない。回避しようと思えば回避できたわけで、現代の感覚からすれば「馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ」という見方になるかも知れない。しかし彼らは「武士」だったのだ。
 戦後、板垣退助は「全藩を挙げて命を惜しまず戦った二本松藩こそ武士の鑑」と賞賛し、徳富蘇峰も「会津、二本松の卓越した政治姿勢があったから、日本は植民地にならずに済んだ」と語っている。

 慶長20年(1615)に起きた大阪夏の陣以降、城を枕に討ち死にした藩は、三百余藩ある中で、二本松藩だけであった。

(記者:関根)

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