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ザ・戊辰研マガジン

2019年1月号 vol.15

2019年1月号の表紙

2019年01月05日 11:35 by norippe
2019年01月05日 11:35 by norippe

2019年1月号の表紙は会津鶴ヶ城と凧です。

鶴ヶ城は葦名直盛が築いた館から始まります。
その後の戦国時代、蒲生氏郷が天守閣を建て「鶴ヶ城」という名前が付きました。
鶴ヶ城は三代将軍徳川家光の弟の保科正之によって治められ、会津松平家として幕府を支えていったのです。
戊辰戦争では激戦地となり、1カ月の籠城の末に開城し、そして石垣を残して天守閣は取り壊されたのです。

会津若松市にとって鶴ヶ城は大切なお城。1965年に再建されました。
そして2011年に当初の赤瓦へと葺き替えられたのです。
江戸初期までは、通常の黒色の瓦を使用していましたが、瓦が寒さで凍み割れしてしまうことから江戸中期頃に、凍み割れに強い赤瓦が葺かれるようになりました。
現在の復興天守の瓦は、中期頃以降の姿を再現したものです。

五層は城下町を眺望することができるスペース
四層は会津ゆかりの先人たちの紹介
三層は幕末の会津・戊辰戦争についての紹介
二層は鶴ヶ城の領主の変遷紹介
一層では鶴ヶ城の歴史について紹介
鶴ヶ城の天守閣内は、郷土博物館として会津の歴史や文化について紹介しており、さまざまな展示が行われています。

空に舞う会津唐人凧、この凧はベロを出していることから「べろくん出し」と言われています。
明治元年(1868年)8月、会津の鶴ヶ城は、城の東側にある小田山から砲弾が雨あられのように撃ち込まれ、そのたびに城内各折から黒煙が上がりました。
籠城していた会津軍もけが人が続出し、決死の部隊が城外に出撃して戦いに挑みましたが、大勢をくつがえすまでには至らず、孤立無援の絶望的な籠城戦が果てしもなく続くといった毎日でした。
そんなある日、鶴ヶ城の本丸から凧があがりました。
凧は砲煙をかいくぐって大空高く舞い上がり西軍を唖然とさせるとともに、城内の将兵の士気を高めるために籠城中の少年があげたのです。
その時の凧が会津唐人凧で、あげた少年は藩校日新館生徒の池上四郎。
後の大阪市長であったと伝えられています。

戊辰戦争研究会も負けじと凧ならぬ旗をあげています。
背景に見える山は磐梯山ですが、実際に鶴ヶ城からこのように見えることはありません。

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