ザ・戊辰研マガジン

2019年1月号 vol.15

桜宝寿のいろいろ感想、第36回「慶喜の首」

2019年01月02日 08:32 by moomin6001

 鳥羽伏見の戦い  

 戊辰戦争が始まりました。大坂城から討薩表をかかげて鳥羽街道を北上し、京へ入ろうとした旧幕府軍(以下、東軍)と、城南宮近くの小枝橋付近で、やる気満々で待ち構えている薩摩軍です。東軍は京を出る時はすんなりいきましたので、さっさと京へ入れると思っていたらしく、あまり警戒している様子はありません。突然、大砲を撃たれて、それに東軍の指揮官の乗っていた馬が驚いてしまい、小枝橋を逆走したことから、大混乱に陥ってしまいました。本当に全面戦争をする気だったら、東軍の方が兵力ははるかに多いので、京の七口(京に入る街道は7本あります)の全てから、京都盆地へ進軍して、朝廷を抑えれば勝ち目もあったのですが。

 1月3日は不意打ちをくらった東軍ですが、翌日には兵力を立て直し、押し気味になったところに錦旗が登場!これで日和見だった各大名家が錦旗の下に参集し、一気に形成が新政府軍有利となりました。  鳥羽伏見で負けても、大坂城に籠城し、紀州や江戸からの援軍を待つ・・という手を主戦派は主張しますが、やる気がなくなった慶喜は、容保や定敬らを連れて天保山沖から軍艦に乗り、江戸へと帰還しました。容保らを大坂へ残しておくと、東軍の旗印にされるからだったとか。慶喜は以後、徹底的に恭順を貫きますが、気の毒なのは会津ですねぇ。

 殿様たちはさっさと船で東帰したものの、残された東軍の兵たちが江戸へ帰るのは大変でした。新選組は土方歳三が元気でいましたので、榎本武揚ら旧幕臣と話をつけ、富士山丸と順動丸に分乗して、江戸へと帰ることができましたが、指揮官が戦死した京都見廻組の面々や、会津藩士、旧幕臣たちは大坂城から南下して紀州藩を頼り、紀伊半島の端まで行き、各自で船を雇って江戸へと向かいました。

 鳥羽伏見の戦いで信吾が負傷しました。これは史実で、薩摩藩の野戦病院になった相国寺の塔頭、養源院にもそういう話が伝わっていました。2018年春には、養源院が公開されて、柱にしっかり刀傷があるのを見てきました。日本は室内の写真が撮れないのが残念ですが。お寺のご案内の方と、大河ドラマでその場面を放映してくれるといいですね、と話していたのですが、今回、ばっちりでしたね。

 相国寺には薩摩藩の大きな墓所があります。そもそも二本松屋敷は相国寺の敷地でしたし。

 墓碑の下部に亡くなった方々の名前が書かれた陶板が設置されています。

 東福寺の薩摩藩の菩提寺、即宗院にも墓所の奥の方に、戦死した薩摩藩士の大きな墓碑があり、こちらは亡くなった兵士の墓碑銘を吉之助が書きました。

洛南の城南宮です。

 この参道のあたりに薩摩藩は4期の大砲を並べて、近くの小枝橋に向けて砲弾を撃ったことから、1年半近くの戊辰戦争が始まりました。

小枝橋です。結構、長い橋です。  

城南宮付近には鳥羽伏見関連の石碑が建立されていました。

 慶喜は、明治になって、記者のインタビューに答えて、「戻れるなら、鳥羽伏見の戦いの前に戻りたい。」と言ったとか。この戦いは慶喜にとって、痛恨の戦いだったようです。

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