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【先祖たちの戊辰戦争・一】喜多方・小檜沢(こびさわ)峠

2019年01月05日 11:38 by tange

 慶応4年(明治元、1868)8月23日、予想を超える速さで新政府軍が会津若松城に迫った。そのため私の曾祖母で8歳だった光子は、父・鈴木丹下が籠もる城への入城が叶わず、母、祖母、伯母らとともに戦禍を逃れ阿賀川(大川)沿いを、三日前から降り続く強雨の下、北へ行く。
 回想記「光子」に逃避行のなか足を留めた村落として、西屋敷、見頃(みごろ)そして吉志田(よししだ)村が記されている。母・美和子が米沢領へ逃れることを決断し、藩境の山脈を越えようとして通過した村々である。現在の喜多方市を経て北を目指したのである。
 曾祖母らが米沢領へ逃れようとして越えた峠が、どこであったかを調べるため喜多方市を訪れた。同市教育委員会文化課の協力も得て調査をした結果、従前その峠を大峠としていたが、小檜沢峠ではないかと考えるようになった。
 なお、回想記「光子」ではその峠を十三峠としているが、十三峠は越後山脈のなかの険しい峠道を一般的にそう呼ぶので、二年後に斗南へ移住のため新潟湊に向かったとき越えた峠との錯誤と考えられる。


会津戊辰戦争一日目、光子らが北へ逃げた阿賀川(大川)堰堤

 「喜多方市史・二巻、添付図面・近世後期北方地方の組の範囲」に下台(下台の小名が西屋敷)、見頃、吉志田村が明示されている。曾祖母らは8月23日の逃避行一日目に西屋敷に着いている。この村は〝府城の北に当り行程5里3町余〟と市史に記されている。5里3町は約20.3kmである。幼い光子、身重の母、70歳を超える祖母らは、敵が攻めてきた明五つ時(午前8時頃)から、混乱を極めるなか驚くほどの距離を歩いている。
 この西屋敷に五日ほど留まり、越後口の戦いが始まり危険を感じたため、そこから西北の方へ逃げ見頃村に一夜の泊所を得る。
 さらに北へ進み吉志田村に着き、そこに三日ほど滞在する。ここまで来ると米沢領にもかなり近づいている。
 西屋敷、見頃、吉志田村は、現在の喜多方市に存在していない。喜多方市の明細地図上に、濁川に架かる見頃橋と押切川に架かる吉志田橋を見つけた。川の流れは150年ほどで大きく変わることは無いし、それに架かる橋もその地域の重要なインフラで呼称が簡単に変更されることは無いと考えた。つまり、それらの橋の近傍に見頃、吉志田村があったと判断した。
 曾祖母らの彷徨の道筋をたどると、明らかに濁川とその上流の押切川沿いを北へ進んでいるのが分かる。二つの川の東側、かなり離れて流れる田付川沿いの道を北へ進むと達するのが大峠である。


濁川に架かる現在の見頃橋

 江戸時代、会津から米沢へ向かうルートは、大塩川沿いに大塩村を通り檜原湖の西岸を抜け檜原峠を越える道が本道として整備されていた(『塩川町史・一巻』)。しかしその時、米沢藩が新政府へ降伏した9月8日の直後である。峠道の監視は厳しかったはずで、敵対することになった会津藩士の家族が、そこを越え米沢領に入ることなど考えられない。
 檜原峠の西に位置する大峠は、戦国時代に伊達政宗の会津侵攻のため開かれた峠である。しかし大峠は、寛永4年(1627)、加藤嘉明に依って通行を禁止され、明治15年(1882)、会津三方道路の一つとして新道が開削されるまで全く往来できなかった(『会津の峠・上』)。従って曾祖母らの逃避行のとき、その急峻さも相まって、この峠を越えたとはやはり考えにくい。
 吉志田村に留まった曾祖母らは、そこを出て押切川沿いをさらに北を目指す。熱塩(あつしお)、日中(にっちゅう)村を経て小檜沢道を行き、小檜沢峠を越えたのであろう。著作「会津の峠・上」に〝小檜沢峠に通じる間道は、寛永年間から閉鎖されたが、その後も歩き易い道だったので利用されていたといわれている〟と記されている。
 小檜沢峠を越えた一行は、9月8日の米沢藩の降伏を知り、直ぐに同じ道を引き返している。そしてその後、会津藩の降伏、斗南への移住、そこでの塗炭の生活など、さらなる艱難辛苦の道を歩むのである。


旧見頃村の西光寺・山門

 濁川に架かる見頃橋を渡り少し往き、やや高台になった小ぢんまりとした集落を見つけた。その真ん中に浄土真宗・西光寺があった。山門と本堂から成る境内はあまり広くなかったが、全体が美しい調和を保ち、いかにもコミュニティの中心にある寺院と感じられた。
 「喜多方市史・二巻」に〝見頃村中に西光寺あり〟と記されている。間違いない、と確信した。この集落こそ、149年前、戦禍を逃れ彷徨っていた曾祖母らが一夜を過ごした旧見頃村だった。
 この旅で、河川に架かる橋の名称が、その地の歴史的情報を確かに伝えていることを学んだ。


光子らが越えた米沢国境沿いの山並みを、旧見頃村辺りから望む

 そこからはるか先に、米沢へ越えなければならなかった山並みが望まれる。曾祖母らが彷徨を始めた8月23日は、今の10月8日である。ちょうど同じ時季にここを訪ねた私は、北の山から容赦なく吹きつけてくる冷たい風に立ち尽くしていた―― 。
(平成29年10月、鈴木 晋)


(次回は、曾祖母・鈴木光子が斗南への船に乗るため滞在した新潟についてです)






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