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ザ・戊辰研マガジン

2018年12月号 vol.14

イナゴの佃煮に思う

2018年12月06日 14:15 by date
2018年12月06日 14:15 by date

山形県高畠産のイナゴの佃煮

 ちょうど稲刈り終了後に実家のある宮城県に帰省した、その時の晩酌に出てきたつまみが「イナゴの佃煮」である。大変懐かしい食材である、昭和30年代に私の祖母に作ってもらいおやつとして食べた覚えがある。そして昭和30年代の小学生時代に、学校そばの田圃に授業の一環として同級生らと繰り出しイナゴ取りしたものである。秋空の下で教室を抜け出しての課外授業が楽しくてはしゃぎながら田圃を駆けたものである。そしてはしゃぐ僕らの手には一様に布製の袋があった。その時代はまだスーパーマーケットのない時代であり、当然にレジ袋などはなかった。布製の袋はその時代にどこの家庭にもあった「手ぬぐい」を母親が縫ってくれた自家製の袋であった。その自家製の袋の中でうごめくイナゴのガサガサという音は僕らの戦利品であった。
 私ら学童の集めたイナゴはその後どうなったかわからないが、おそらく小学校の教材や、各種設備などにまわされたのであろう。その時代は子供らのおやつだろうが、平成の今の時代は晩酌の立派なつまみであり、懐かし食材でもある。

 イナゴの佃煮の作り方を簡単に紹介する。
収穫したイナゴはそのまま一晩放置する、このことでイナゴの糞が排出される。その後に大量のイナゴを茹でる、茹で上がったイナゴの足と羽をむしるのだが、地方によっては足と羽を残すところもある。その後に砂糖、醤油、料理酒を使い炒めるのである。炒めあがったのがイナゴの佃煮である。
 私は実家でイナゴの佃煮を食べたときに羽根がないのに気が付き、宮城のイナゴの佃煮はこうでなくちゃと家人に言ったら、それは「山形県高畠の道の駅で買ってきたのよ」なんて言われてしまった。以前食した福島県のイナゴは、足付ききた羽根つきであった、でもそのほうが容量が増えて効率的であるともいえる。

 さてそのように欠食児童の栄養源になったイナゴであるが、イナゴにまつわる災害もあった。
明治期の北海道での事件である、明治初期からの北海道は本州からの移住による開拓が進んでいた。粗末な家屋という云い方はあまりにも簡単だが、簡単な躯体と窓のない室内、または障子戸のある仕切り、または障子さえなくムシロにて室内外を覆っていた。精魂込めて開拓した畑では、開拓民の命をつなぐ野菜などの食糧が収穫を待っていた。
 そんな開拓農家の地にイナゴの大群が舞い降りた。イナゴといってもバッタのことで、バッタといってもトノサマバッタのことである。畑の野菜を始め草地や樹木など、そして元々樹木を原料とした家屋の障子・ムシロなどを食い荒らし、食べつくした後は別の場所に飛来するのであった。開拓民らの食糧である野菜や山の恵みなどが食い荒らされれば、飢饉に直結する。開拓使らは大砲を撃ち、火を使って撃退しようとしたが、バッタの群れの数は数億単位であり、自然の摂理には太刀打ちできなかった。被災した開拓民の苦しみと嘆きと絶望は、思い知るも悲惨である。
 それでもバッタの襲来に備えるには、平地に産み付けられた卵を駆除することである、そこで駆除された卵を含んだ土の山が「塚」となって今に残っている。
 その「塚」に添えられた碑を紹介したい。

 いなご塚(バッタ塚)  伊達市史跡
明治13年夏、突如、十勝に発生したイナゴの大群が、日高より胆振へと飛来し、天日はために暗しの観を呈した。
いなごの大群に襲われた跡は、草、木、ことごとく食い荒らされたという惨状であった。ときの農商務省、および開拓使は巨額の金を交付して防除に当たらせた、その時に焼き殺したイナゴを集めこの塚とした。(原文のまま)     伊達市教育委員会

 手稲山口バッタ塚   札幌市指定史蹟
農耕が広く行き渡る前の北海道にも、何十年かおきに飛蝗が発生したことを、アイヌの人たちは語り継ぎましたが、記録に残っている限りでは、明治13年に十勝に発生して、日高、胆振、後志、渡島などへ広がり、明治18年までは農作物などに被害を与え、開拓に着手したばかりの農家に深い絶望感を与えたトノサマバッタの飛蝗は、最大規模のものでした。
明治政府は開拓農家を励まし、また飛蝗が津軽海峡を越えて、本州に進入するのを防止するために、当時のお金で年間約5万円を支出して飛蝗の駆除に努めました。
当初は、アメリカ
、、ヨーロッパ、中近東で行われた防除方法を参考にし、捕らえられた幼虫成虫は穴に埋め。土で覆ったバッタ塚を各地に数多く作らせましたが、現在ではほとんど残っていません。(原文のまま)

 以上、北海道伊達市と札幌市に残っている「いなご塚」(バッタ塚)に添えられている碑文を紹介した。さらに十勝地方鹿追町の碑文を紹介する。

鹿追町
鹿追町教育委員会

十勝開拓の歴史はバッタの発生に始まるといえるが、本町で大量に発生したのは昭和55年であった。関係団体と自衛隊の出動で駆除したバッタは7億匹という。この霊を慰め災害を防ごうと、約60万円を投じてこの碑が建てられた。(原文のまま)

 以上のように北海道各地にもたらしたイナゴの被害(蝗害という)ではあるが、北海道での一つの発見が伴った。それは蝗害を調査する開拓庁が北海道の奥地を調査したところ、日本で3番目に広い十勝平野を発見したことである。十勝平野は調査が進めばいずれは発見される場所であろうが、このことで開拓が大きく進んだことは違いない。

 では日本に生息するイナゴがそういった災害をもたらすということではない、イナゴとりわけトノサマバッタの生態を説明するが、バッタの幼虫は低い密度で生息すると「孤独相」と呼ばれ単独で生活を送るが、かたやバッタの幼虫が高い密度で生息した場合は「群生相」と呼ばれ飛翔能力と集団性が高い幼虫に変化する。
 そういうことで孤独相と呼ばれるバッタは周辺の植物などをエサにして単独にて生息するが、群生相のバッタは集団でエサを食べ尽くすので、食べつくした場所から次の場所へと集団で飛翔することになる、それが乗じて蝗害となり、北海道の開拓民の生活生存を脅かすのである。

 昭和平成の現代では、薬品(消毒)による駆除が可能であり、今後蝗害が発生することはないという。イナゴが田んぼに生息する環境こそが安全な自然環境であり、自然や環境との共生ではないだろうか。
 今再び、子供たちが田んぼでイナゴを取り合う光景を見てみたいものだ。

記者:伊藤

 
 

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