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ザ・戊辰研マガジン

2018年12月号 vol.14

会津藩家老萱野権兵衛の母の墓

2018年12月04日 22:16 by norippe
2018年12月04日 22:16 by norippe

 いわき市の磐城平城跡のまわりには戊辰戦争で命を落とした数多くの藩士の墓地がある。磐城平城跡の西方に磐城女子高校がある。現在は磐城桜が丘高等学校と改名されている。
この磐城桜が丘高校に隣接して「長源寺」というお寺がある。戊辰戦争時、この長源寺は仙台藩の本陣であったが、戦争終結後は薩摩藩の陣となった寺である。この辺は平城下で道は狭く曲がり角が多く、登りに下りにと車で歩くには難所である。
 2016年の戊辰研いわき集会ではここを訪ねたのではあるが、時間がなかったので寺の山門を見るだけになってしまった。


長源寺(当研究会の蔵六さんが右端に写っていた)

 長源寺は曹洞宗の寺で鳥居家の菩提寺でもある。
 慶長五年(1600)徳川家康の命をうけ京都郊外の伏見城を死守した鳥居元忠は、家人354名とともに、石田三成らの数万の大軍に包囲され、伏見城を血に染めて討死した。慶長七年(1602)元忠の勲功によりその子忠政は磐城平城主に封ぜられ十万石を賜った。これより先、将軍家は元忠の伏見城の忠死を賞し、菩提のため一寺を磐城胡麻沢に建てて長源寺と号し、百石の黒印を賜ったのである。

 その長源寺の鳥居家墓所に行く途中、古びた墓石が一基建っている。墓には、会津人萱野櫻所妻之墓とあり裏に明治二十五年四月十日卒、四男正七位勲六等 三淵隆衡建立と書かれている。


会津人萱野櫻所妻之墓

 三淵隆衡は会津藩士。そして三淵隆衡の兄はなんと、戊辰の戦いで会津藩の責任を一身に負い切腹した会津藩家老萱野権兵衛なのである。
 萱野の家名は権兵衛が亡くなったあと断絶となり、三淵と名乗ったのである。
 このお墓は権兵衛、隆衡兄弟の母親ツナの墓碑である。三淵隆衡が明治二十三年四月から同二十七年九月まで菊田・磐前・磐城の西白河郡長を務めていた。その任期中の二十五年に母親が亡くなり、この長源寺に墓を建立したものと思われる。

 ちなみに、三淵隆衡の子である三淵忠彦は初代最高栽長官を務めた人物である。


 ここからは会津藩の責任を一身に背負い自刃した会津藩家老萱野権兵衛について触れることにする。


会津藩家老萱野権兵衛

 萱野権兵衛が会津藩の責任を一身に背負って自刃したことは知っておられるかと思う。
 会津藩の戦争責任を追求する西軍の会議の末、「藩主松平容保は門閥の出身であるから、彼が逆謀を企てたとは思われない。従って会津藩により首謀の者を出頭させるべし」との命が下され、このとき会津藩から名乗り出たのが萱野権兵衛だった。
 会津藩の家老田中土佐・神保内蔵助・萱野権兵衛の三人が戦争指導者であったが、土佐と内蔵助はすでに自刃しており、権兵衛が会津藩の戦争責任を一身に引き受けたのである。
 権兵衛は江戸の謹慎所に送られ江戸久留米藩有馬邸に幽閉されたのだ。そして権兵衛は明治二年五月十八日切腹を命じられたのである。
 幽閉後、有馬家から丁重な酒肴を賜ったが権兵衛はそれを辞退し、茶を戴きたいといって茶を望んだ。そして茶を自分で点じて同室の人たちに配りそして自分も喫したという。
 さらに権兵衛は、会津藩の中でも指折りの剣士で、一刀流溝口派の達人であった。自分の死によって一刀流の奥義の絶えることを憂え、室内にあった竹の火箸を用いて井深宅右衛門に剣の奥義を伝授したと言われている。

 やがて権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科邸から迎えが来て、権兵衛は有馬家に厚く礼を述べ江戸久留米藩邸を出た。保科邸には梶原平馬と山川大蔵が来ていた。梶原と山川は権兵衛に、旧藩主容保と照姫からの親書を渡した。容保からの親書には「私の不行き届きによりここに至り痛哭にたえず。その方の忠実の段は厚く心得おり候」とあり、また照姫からの親書には“夢うつつ思ひも分す惜しむそよ まことある名は世に残れとも”の一首が添えられていた。権兵衛は書状に謹んで礼を述べたのである。

 そして自刃の時刻がきて権兵衛は保科家、松平家の家臣たちに別れを告げ静かに別室に入ったのである。
 しばらくして介錯人の沢田武司が帰ってくると、「事は無事おわりました。死に臨み従容自若、顔色すこしも変わらず、誠に立派なご最期でございました」と報告した。そして沢田が権兵衛の最期について語ったところによると、権兵衛は沢田の刀をみて、貴方の常に差している刀かと問うたので、実は保科家から忠臣をもてなす道として特に下された旨を話すと、権兵衛は鑑定したいといって沢田から受け取り、抜いてみて貞宗の名刀ではないかと反問したという。保科家から下された刀はまさにその通り貞宗であった。
 権兵衛は「最期に臨んでよい目の保養をした。見事にお願いする」といって一糸乱ぬ姿で介錯を受けたのである。萱野権兵衛享年四十一歳であった。

 保科家から軍務局に権兵衛の絶命が報告され、遺体は浅黄の木綿に包まれた柩で芝白金の興禅寺に運ばれて葬られた。法名は報国院殿公道了忠居士。

 権兵衛の遺族には松平容保から金五千両、自刃見舞いとして銀二十枚、喜徳からは銀十枚、照姫から銀二枚を賜わった。この年、松平容大に外桜田門に狭山藩邸を賜わったが、松平家ではその邸の一部をさいて権兵衛の遺族らを住まわせた。 会津天寧寺の先塋地には、萱野権兵衛夫妻の墓と、一子郡(こおり)長正の墓がある。

 当マガジンのVol.7号の「飯野(保科)藩広尾別邸」(鈴木晋さん記事)では、この萱野権兵衛の終焉の地をご自身の足で辿った内容の記事が書かれているので、是非ご覧いただきたく思う。

(記者:関根)

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