ザ・戊辰研マガジン

2018年12月号 vol.14

【都内、幕末維新史跡・九】会津藩江戸屋敷

2018年12月04日 22:18 by tange

 旧江戸城・和田倉濠に面して在る今上陛下御成婚記念の和田倉噴水公園の地は、会津藩上屋敷の跡と言われてきたが、それは正確な表現ではない。噴水公園は、藩主が公用に際して滞在する上屋敷ではなく、その隣の預かり屋敷の跡に造られたのである。
 大正3年(1914)、東京駅舎が完成した際、その正面貴賓玄関から皇居へ向かうように幅員70mを超える道路が造られた。現在も存在している行幸通りである。当初、濠の手前、現在の日比谷通りまでだった行幸通りは、大正15年(1926)、史跡であり文化遺産としても極めて貴重な江戸城の石垣を破壊し濠を埋め立て内堀通りにつながった。その土木工事は、暴挙としか言いようのない行為だった。
 明治天皇が東幸され今日に至るまで、御所と正門(二重橋を含む)は、旧江戸城の本丸からかなり離れた西ノ丸の位置に定められている。幅員70m余の行幸通りの延伸は、その反対側に在る宮内庁舎などの出入口いわば皇居全体の通用口を目指しているようにしか思えない。都市機能の観点からも不合理で不可解な土木工事だった。
 会津藩上屋敷の跡は、このあまり必要と思われない通りの延伸によって、幅広い道路の下にその全てが飲み込まれた。一方的に言われてきた会津藩の過ちに対する仕打ちが、大正末期まで続いていたのだろうか。
 朝敵とされた会津藩が許されるのは、昭和3年、秩父宮雍仁親王殿下と旧藩主・松平容保の孫、勢津子姫との婚儀が調うまで待たねばならなかった。


日比谷通りを越え会津藩上屋敷跡へ延びる行幸通り、その右手に和田倉噴水公園

 平成25年11月、東京・南麻布の都立中央図書館で、「最後の江戸城―建築図面から見る幕末の姿」と題する企画展が開催された。江戸城を中心とした史料の展示であるが、私は、城を取りまく大名屋敷が表現されている数点の古地図に興味を覚えた。そこに、会津(松平)藩祖・保科正之の屋敷を探そうとした。

 「武州豊島郡江戸庄図(寛永9年・1632の頃)」に、私は会場で拡大鏡を借りて懸命に保科正之の屋敷を探した。やっとのことで、外濠に架かる鍛冶橋を渡り御門を入り二軒目のところに、それを見つけた。他の大名屋敷と比べると、まだ小さな屋敷である。
 寛永9年は、保科正之の実父である徳川二代将軍・秀忠が亡くなった年で、実兄の三代・家光に側近として重用され始めた頃である。その前年、正之は21歳で信州高遠3万石の藩主となり、寛永13年(1636)26歳の時、最上山形20万石の藩主となる。
 全くの余談になるが、鍛冶橋御門内の保科正之の屋敷に隣接して吉良左近衛と表記された同じ規模の屋敷を見つけた。そこは、後に忠臣蔵で赤穂浪士の敵役となる吉良上野介の生家である。彼は、寛永18年誕生、ここに住み続け、松の廊下の事件後本所松坂町へ屋敷替えとなる。

「新添江戸之図(明暦3年・1657、1月18日の大火直前の頃)」に、外桜田御門内すぐ‘保科肥後’と表記された屋敷を見つける。鍛冶橋の屋敷より少し大きくなっている。同時に、芝浜の下屋敷も見つかった。その邸地は寛永16年(1639)の拝領で、正之、29歳だった。
 この時、濱御殿(現、浜離宮庭園)は未だ存在せず、下屋敷の前には江戸湾が拡がっていた。
国元では海に恵まれない会津藩士たちは、初めて見る自藩の屋敷からの景色に驚いていたに違いない。
 明暦3年の時点で江戸屋敷が二か所であった会津藩に、上、中、下屋敷が整うのは、翌万治元年(1658)、三田に下屋敷を拝領してからで、正之、48歳だった。
保科正之は、寛永20年(1643)33歳の時、会津23万石(実質28万石)の藩主となり、親藩大名として米沢(上杉)、仙台(伊達)の外様雄藩へ睨みを利かすようになっていた。

 「天保改正御江戸大絵図(天保14年・1843)」に会津屋敷を探す。いきなり「新添江戸之図」から190年ほど経過した地図になってしまうが、ここに親藩大名、会津松平家の江戸における全ての屋敷が表示されている。
 和田倉御門内、御城本丸近くの上屋敷は、その立地位置とともに、屋敷自体もかなり大規模で併せて隣にもう一軒預かり屋敷を拝領していたので、地図上も目立っている。この上屋敷は、会津藩三代・松平正容が宝永6年(1709)に拝領し、幕末まで替わることがなかった。
 保科正之は寛文12年(1672)12月18日に永眠する。享年62。会津藩は藩祖逝去から37年後、和田倉御門内に上屋敷を構えるのである。


和田倉噴水公園(会津藩預かり屋敷跡)から江戸城・辰巳櫓を望む

 中屋敷は、芝浜の下屋敷が拡充されたもので、邸地は3万坪となっていた。ただし、目の前の海が埋め立てられ濱御殿が造営されたので、屋敷から海浜の景色は失われていた。
 現在そこは、複数の高層ビルが立ち首都高速都心環状線が横切っている。旧中屋敷を示す碑などを探したが見つからなかった。わずかに、中屋敷邸地の東北隅の直ぐ前に在った濱御殿・中之御門あたりの現在の様子に、当時の面影を残すばかりである。


浜離宮庭園・中の御門あたり(会津藩中屋敷跡の湾側隣地の光景)

 三田の下屋敷は、中屋敷よりさらに広く、邸地全体で3万3千坪もあったという。特に北側斜面には、江戸でも有数の美しい庭園が広がっていた。そこは今、綱町三井倶楽部の庭園となっている。ただ、三井という商家が何代もかけて丹精した現在の景観は、おそらく会津屋敷のそれとはかなり違ってきているはずだ。庭園のオリジナルの姿は想像すらできない。
 ここにも、会津藩下屋敷の庭園だったことを示すものは、一切、無い。


綱町三井倶楽部・庭園(会津藩下屋敷跡)

 外濠・鍛冶橋御門内から内濠・外桜田御門内、そして和田倉御門内御城本丸近くへと江戸における上屋敷の変遷を古地図上に追うと、会津松平家の栄達の様子がよく分かるのだ。
 しかし、その栄達が会津藩の幕末維新における悲劇へつながっていくのである。

 今回で【都内、幕末維新史跡】のシリーズは終了する。これまでに、会津藩に関わる史跡を示すものが残されていないことを繰り返し述べてきた。これは異様なことだ。会津藩は今でも朝敵で賊軍という認識が、そうさせているのであろうか。
 都内の広尾、荒木町、小日向、汐留、三田綱町などに、きっと将来、会津藩の幕末維新史の一端を記した碑(いしぶみ)などが立てられることを信じて、このシリーズを終えたい。

(鈴木 晋)


(来年一月からは、【先祖たちの戊辰戦争】として、私の先祖たちが遭遇し艱難辛苦を強いられた戊辰戦争について記します。次回は、会津若松籠城戦の時、城に入れなかった曾祖母・鈴木光子と家族が米沢領に逃れようとして越えた小檜沢峠についてです)

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