ザ・戊辰研マガジン

2018年11月号 vol.13

桜宝寿のいろいろ感想、「吉之助と龍馬」

2018年10月30日 19:17 by moomin6001

吉之助と龍馬 

 ドラマでは、えらく強引に龍馬が京都薩摩屋敷の西郷のもとを訪ねていました。実際は、江戸で謹慎する勝海舟が龍馬ら脱藩浪士たちの処遇を小松に頼んでおいてくれたので、龍馬らが薩摩屋敷へ身を寄せることができました。そうでないと、薩摩藩としても龍馬ら土佐系の浪士を信用しないでしょう。

 京都の屋敷は狭いので、広い大坂の蔵屋敷へ行くようにとの小松の指示があり、龍馬ら海軍塾の面々は大坂へと移っていきました。薩摩藩にしても、軍艦を操船できる海軍塾の塾生たちは重宝したようです。その後、長崎で小松社主の下、亀山社中となっていきます。  

 ドラマの中で、龍馬は海軍塾の塾頭と紹介されていました。神戸海軍操練所は葵の紋所を頭に抱く、幕府直轄の施設ですが、海軍塾の方はあくまで勝の私塾です。ただ、後に有名になるのは龍馬や近藤長次郎ら海軍塾の塾生たちでした。現在、大阪歴史博物館で「西郷どん」展を行っていますが、展示の前半と後半の間の廊下部分に、東京・京都・大阪の西郷関連の史跡案内や地図が掲示されています。

 その中の大阪編に「大坂海軍塾跡」の銘板の展示がされています。神戸に行く前に、海軍塾は大坂にありました。大村益次郎が学んだ適塾もすぐ近くにあり、日本の陸軍と海軍の揺籃期は大坂・船場にありと言ってもいいぐらいです。船場は金儲けの町だけではありません。医学・洋学・軍事関係と、国の近代化を目指した全国の優秀な若者が集まって学んだ学びの地でもあります。

 龍馬と吉之助は本当に気があったようで、後年、お龍の回想録にも、龍馬の死後、明治期に剥落したお龍が東京に訪ねて行った人々の中で、唯一吉之助は自分を暖かく迎えてくれたと述べています。他の龍馬の知り合いはお龍に冷たい人が多かったそうですが。  

 いよいよ薩長同盟が近づいてきました。約束していたのに、吉之助が下関によらず、桂と会わずに京へ行ってしまったのは史実で、薩摩藩内部にもいろいろな意見があるのは、海江田・大山コンビが演じていた通りでしょう。薩摩藩にしてみれば、別にあえて長州を助ける必要はないわけでして。長州の桂にしてみれば、藁をもつかむ思い・・。ただ、長州内部にも薩摩藩を恨んでいる派もいて、この時期、どこの藩も内部はもめています。皆、先行き不安でどう転ぶかは、誰も知らず・・です。我々見ている方はその後の展開を知っていますが、ライブで生きているひとたちは、さぞや不安だったことだと思います。それだけ、見ている方はおもしろいですけど。吉之助に押されて、大久保がかなりその気になってきました。そう、この方がその気になってくれないことには話が進みません。この二人の友情は幕末期、国の仕組みを変えるまでは熱く連携しますが、その後の悲しい状況を知る我らは・・・。

 小栗旬さんの龍馬、ワイルドです。幕末史の本筋の歩みを描くぐらいでしか、ドラマの枠の時間がないでしょうが、ぜひ、龍馬と薩摩藩士関連のエピソードを数多く、描いていってほしいものです。

 こちらは京都薩摩藩二本松屋敷跡です。薩摩藩の京都屋敷には錦屋敷というのがあるのですが、久光が1000名の兵を率いて上京となると、錦屋敷だけでは足らず、京都御所の北側、相国寺の地所だったのを薩摩藩が借り受け?、文久3年、屋敷が造られました。長徳寺という京都府庁近くのお寺さんには、この折、立ち退きになったという寺伝があり、寺も動かしたのでしょう。

 明治以降、元会津藩士山本覚馬がこの地を手に入れ、後に新島襄が譲り受けて、同志社英学校になったくだりは、「八重の桜」でも描いていました。明治8年(1876)には当地に同志社の寮ができました。  錦屋敷跡には現在、大丸京都店が建っています。玄関に向かって左側奥に石碑があります。

 

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