ザ・戊辰研マガジン

2018年11月号 vol.13

山本覚馬でございます

2018年11月06日 12:17 by norippe



 私は明治25年にこの世を去りました。墓石の下で静かに眠っていましたが、何やら外が騒がしいので墓から出てみましたら、なんでも、今年は戊辰戦争から150年の節目の年だそうで、各地でイベントが開催されて賑わっているようです。「そうか、あれから150年も経ったのか!」と墓のまわりを眺めてみましたら、私の妹の墓がありました。まっ、150年も経っているのですから、妹が亡くなっていても不思議ではないですね。

 せっかく今の世に出てきたのですから、私の事を少しでも知ってもらいたく話をしてみようかと思います。

 私の妹は大河ドラマで主役を努め一躍有名になった山本八重。妹のおかげで私の名前も知れ渡り、ようやく私も日の目を見ることが出来ました。
 私達兄弟は会津鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれ、父は会津藩の砲術指南役を務めておりました。私は会津藩校・日新館で勉学に励み、22歳の時、江戸に出て更なる知識を身につけるため佐久間象山の塾で蘭学を学びました。更に洋式砲術の研究にも努めました。
 28歳の時に会津の日新館で教授となり、蘭学所を開設しました。その時、守旧派の古臭い考えを批判したおかげで1年間の禁則処分を受けてしまい、家に閉じこもった生活になってしまったのです。家ではやることもなく、ただただ鉄砲の手入れや試し撃ちなどをしていましたが、それを陰でジッと見つめる目がありました。
妹の八重でした。
女だてらに鉄砲に興味を持ち
「わだしにも撃だしてくんちぇ!」
(訳:私にも撃たせて)とねだるのです。
「おめえなんかに出来っごねえべ」
(訳:おまえには出来ないよ)と妹を撥ね退けるのですが
「んだげんちょ、撃だせてくんちぇ」
(訳:でもお願いだから撃たせて)としつこく妹はせがむのです。
仕方なく鉄砲を持たせ撃たせてみました。
案の定、弾は的を外れ妹は目を丸くして立ちすくんでしまいました。
これで諦めるだろうと思いましたら、諦めるどころか
「もっと撃だせてくんちぇ!」
通訳はもういらないですね(^^)
さすが妹は砲術指南役の娘。射撃を数回繰り返すうち砲術素質の頭角を現したのです。その後の妹の活躍は言うまでもありませんね。鶴ヶ城での籠城戦では恐るべきスナイパー山本八重になったのです。

 1年間の禁足を解かれた私は、会津藩の軍制改革を訴えて軍事取調役兼大砲頭取に抜擢されました。そして京都守護職に就任した藩主・松平容保公に従い京都に上ったのです。元治元年に起きた京都御所での禁門の変では、我が会津軍は朝敵である長州軍を撃退し、朝廷から更なる信頼を得たのです。その頃、私の身体に異変が生じ、見るものすべてがぼんやりとして見えにくくなる眼病を患ってしまったのです。
 慶応2年に会津藩士の中沢帯刀とともに、鉄砲の購入のため長崎へ行きました。そして長崎の近代病院「精得館」で、オランダ人医師に眼の診察をしてもらったのですが、どうも白内障のようだと診断されたのです。白内障は歳をとると発祥する老人性や、若くして発祥する若年性などがありますが、その他に先天性や外傷性もあります。禁門の変の時に負った傷による外傷性が疑われますが、はっきりした原因はわかりませんでした。簡単な治療をほどこし京へ戻りましたが、目の具合はますます悪くなる一方でした。

 その後、幕政が大きく揺れ王政復古のクーデターが起きたのです。そして翌年の正月に鳥羽伏見の戦いが勃発してしまいました。私には三郎という歳の離れた弟がいるのですが、弟はこの鳥羽伏見の戦いに参戦し、そして戦死してしまいました。弟の死を知った妹の八重は発狂し、鉄砲を抱えて「敵を撃つ!」と家を飛び出したそうで、家にいた川崎尚之助がそれを引き留めたと聞いております。

 我が会津藩をはじめとする幕府軍は、この戦いに敗れ京を離れてしまうのですが、私は目が完全に見えなくなり、京を離れる事が出来ませんでした。新政府軍の制圧する京に留まった私ですが、江戸に戻るのが賢明と考え、京を離れようと蹴上を歩いていた時、不運にも新政府軍に捕縛されてしまったのです。捕縛されたら切り殺されても不思議ではなかったのですが、なぜかそのような事はなく、優遇された形で京の薩摩藩邸に幽閉されたのです。
 私には蘭学を通じて知り合った広い人脈があることを薩摩藩は知っていたのでしょう。勝海舟や佐久間象山、横井小楠、西周などの人脈です。薩摩藩に捕われた私は目が見えないため、牢の中からただただ叫びました。いくら叫んでも番兵は取り次いでくれないので、私は紙に自分の思いを書いて訴える事を考えたのです。しかし目が見えず自分が筆を持つことは出来なかったので、私と一緒に捕えられた会津藩士の野澤鶏一に筆をとってもらいました。この野澤はのちに弁護士そして裁判判事などを務めた優秀な人物で、私の伝える文言を的確に理解し筆記してくれました。
 そうして出来あがったのが「管見」という建白書です。これからの日本はこうあるべきだと訴えました。これが薩摩の首脳である西郷隆盛や岩倉具視の目に入り、私は自由の身となりました。徳川幕府を潰し、まずは新しい国を作ろうとした新政府でありましたが、その国造りの根幹が出来ておらず、私の「管見」を見た新政府首脳陣は驚愕の表情をうかべ、私を丁重に扱うようになったのです。
 暗殺されてしまった坂本龍馬は新国家の骨組みを八つの項目で示した「船中八策」を論じましたが、私の提示した「管見」は23の項目にわたった新国家造り構想で、日本の近代化を進めるにあたっての具体案を論じたものです。そしてこの「管見」がその後の日本の国の形を作ったのです。その「管見」については後程紹介したいと思います。

 自由の身になった私は、京都府政の実権を握っていた槇村正直の顧問として府政を指導する立場に立ちました。小中学校・女学校・病院・医学校などの設立に力を注ぎ、家では講義所を開いて政治学・経済学を講義しました。また明治5年には日本で最初の「内国勧業博覧会」を開催し京都の近代化に貢献したのです。この頃は京都のためにと無我夢中で働きましたが、身体の具合が思わしくなく、脊髄を痛めて自由に動くことが出来なくなり、会津から京都へ引っ越してきた家族に面倒を見てもらうようになってしまったのです。

 明治8年の春、アメリカの宣教師ゴードンと知り合い、そのゴードンから漢文で書かれたキリスト教の入門書「天道溯原(てんどうそげん)」を頂いたのですが、それはもう素晴らしい内容でした。その頃、キリスト教徒であった新島襄と知り合ったのです。そして彼が学校を建てる計画を練っていたことを知り、私は維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地を学校用地として彼に譲渡し、新島と私の連名で「私学開業願」を文部省に出願し認可されたのです。
 しかし私が今でも不思議に思うのは、天皇の居られる京都御所のすぐ近くに、そして相国寺という大きなお寺のすぐそばに、キリスト教をモットーにした学校設立が許されたことなんです。通常であればとうてい許されるはずもない事だと思うのです。これは本当に不思議な事でした。設立した同志社英学校は現在、同志社大学として引き継がれております。

 明治10年、私は京都府の議員となり初代議長を務めました。その後議長を辞任し、同志社運営の活動に専念しました。また私の身の回りの世話をしてくれた妻の時栄と一緒に、キリスト教の洗礼を受けたのです。
 明治23年、同志社を一緒に開設した総長であり妹八重の夫でもある新島譲が他界してしまったのです。私は新島の意思を引き継ぎ、臨時総長として同志社の発展に力を注ぎました。
 しかしその2年後の明治25年、私はこの世を去ったのです。65歳でした。私の墓は若王子山上の同志社墓地にあります。

 私が明治の新政府に建白した「管見」は次のような23項目にわたる内容です。原文はもっと具体的な文面で書いていますが、ここでは要点だけの簡単な内容で紹介したいと思います。

【政体(政権)】
天皇制の下、三権分立を説いた。
【議事院】
国会を二院制にして、諸侯会議で国政を決定するのが大事である。
【学校】
人材教育を政治の中心にすえ教育が何よりも急務である。
【変制】
法の改正、民を束縛しないようにすすめ帯刀も無益である。
【撰吏】
役人の数を減らし、能力のある人材を登用する事、また鉄道や電話の整備も必要で、有事の際のため港湾には外国製の船舶を用意しておくべきである。さらに封建制を改革し幕藩体制を支えた世襲制を否定する。
【国体】中央集権と地方分権の中間の制度を立て、藩の領地はそのままとし、それぞれに税を課するのが良い。
【建国術】
国家の基本を農業より商業におくことを勧める。
【製鉄法】
日本の近代化にはまず鉄が必要であること、熔鉱炉の設置の必要性を説いた。
【貨幣】
紙幣の発行を説いた。
【衣食】
 肉食も良しとし、衣服の改善も必要である。
【女学】
男子と同じように女子教育が必要である。賢い女性から賢い子どもが育つのであるから、女性を賢く育てる教育が大事である。
【平均法】
長男相統ではなく、男女の子供の平等相続を説いた。
【醸酒法】
米を使う日本酒ばかりでなく、麦やブドウや芋を使ったビールやワインの製造も必要である。
【条約】
外国軍艦の出入港の規制を説いた。
【軍艦国律】
軍艦は藩で持つことを禁止するよう説いた。
【港制】
横浜・神戸を外国に開港するときの注意点を説いた。
【救民】
種痘や性病の対策を説いた。
【髪制】
経費節約のためにも長髪をなくすようにする。
【変仏法】
全国四十五万の寺を小学校にして一般農民・商人・職人らの学校を作るよう説いた。
【商律】
事業に関連する法律を作り、武士でも参入できるようにする。
【時法】
日本は一日を十二の時に分けるが、西洋のように半日を十二にするのが良い。
【暦法】
西洋のように一年を三百六十五日四分の一と決め、四年ごとに一日の閏日を入れるのが良い。
【官医】
優秀な医者を育てることが緊急の課題で、西洋医学に通じた一流の医師を推挙することが大切だ。


以上、簡単な説明になってしまいましたが、私が新政府に建白した「管見」というものです。

 今の世の中がどのような世の中になったのかは、死んでしまった私にはわかりません。それは、現在を生きる皆さんが知り得る事なのです。私が生きた時代と今の時代では大きな隔たりはあるでしょうが、少しでも私が思った新しい世の中になっていれば、私はそれで満足なのです。

そんな世になっていることを願い、私は墓に戻る事にします。
50年後は戊辰200年。
次も騒がしく起こされてしまいそうですが、その時にはまたお会いしましょう。



山本覚馬

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