ザ・戊辰研マガジン

2018年11月号 vol.13

幕末人物終焉の地 河井継之助

2018年11月06日 12:15 by norippe

 明治の初め、誕生したばかりの新政府は強大な軍事力で全国制圧を進め、各地で戦争を繰り広げていた。北越戦争もそのひとつである。
優位に立っていた新政府軍であるが、越後の小さな藩である長岡藩の予想を超えた抵抗に苦戦するのだ。長岡藩のその底知れぬ実力に恐怖するのであった。この長岡藩を率いたのが北越の蒼龍と言われた河井継之助である。


長岡藩家老 河井継之助

 河井は藩の重役として深刻な赤字財政を立て直す役目についていた家老である。「つげのすけ」とも「つぎのすけ」とも言われ、どちらが正しいかはわからないが、地元の長岡では「つぎのすけ」と言われているようである。
長岡市の栄凉寺にその河井継之助の墓がある。北越戦争終結からおよそ1年後に建てられた墓であるが、その河井の墓の至る所に無数の傷が残されているのだ。雨風ですぐに欠ける墓石ではない。また自然に出来た傷でもない。石や何か硬い物で叩かれて出来た傷である事がわかる。


長岡市栄凉寺にある河井継之助の墓

 北越の戦争では長岡の町は火の海と化し、町民は苦しめられた。長岡がこんな苦しみにあったのは無謀な戦争を引き起こした河井のせいだ!と戦争に反対した町民たちの恨みがこの傷に込められているのである。北越戦争の始まりから戦後まで、河井継之助がどのような思いで長岡の町を守ろうと戦いに挑んだのか、その苦悩の道のりを探ってみることにする。

 長岡藩は財政難に苦しんでいた。改革の末ようやく藩が立ち直り始めた矢先、明治維新の嵐が吹き荒れた。京都で成立した新政府は、自らに権力を集中させる為に藩が持つ権限を厳しく制限するのであった。そして兵士や軍資金を各藩に供出させて力を増しながら全国を制圧していったのである。河井は新政府に訴えた。なぜ藩を戦争で従わせようとするのか。全国の藩がそれぞれ発展し力を合わせて日本は世界に恥じない強い国になれるまで。しかし河井の声は退けられた。地方の一役人の意見に過ぎないとみなされたのだ。河井に残された道は藩の自立をかけた抵抗であった。

 今から150年前、ペリーが率いる黒船が来航。日本に開国を迫ったのである。黒船の強大な軍事力に対し幕府と諸藩は海岸線を中心に防衛の強化を迫られるのである。越後74000石の小藩長岡藩。徳川家に代々仕えてきた譜代大名のこの藩にも黒船来航の影響はすぐに及んで来たのだ。幕府に日本海沿岸の防衛を任されていた長岡藩は、警備にあたる藩士それに大砲を増やすことを求められたのである。しかし藩の財政は火の車であった。23万両、今のおよそ50億円に当たる赤字に苦しみ新たな出費に当てる余裕がなかったのである。この時重役の会議に出席を求められたのが28歳の河井継之助であった。
 河井は江戸で名門の塾に学び学問に秀でた若き旬彩であった。藩の財政をどう立て直すか意見を求められ河井は重役たちに自分をぶつけた。これまで藩は財政難に陥るたびに高利貸しから借金を繰り返してきただけだ。河井は赤字の抜本的な解消を怠ってきた重役たちを厳しく追及したのである。
 「青二才め!」河井は重役たちに相手にされなかった。河井は幼い頃から反骨心の強い性格であった。年上の少年に生意気だと責められ血が出るまで叩かれても決して降参することはなかったと言う。そんな河井を少年時代の友人はこう表したのである。「豪気人を凌ぎ、最も議論に長じかつ学を好む。しかれども己に勝つ者を喜ばず。」藩政府に意見が受け入れられず、怒った河井はわずか一か月余りで自ら職を失ったのである。三十歳を目前にした河井が将来を憂えて読んだ詩である。17歳の時に国を助けることを天に誓ったのに29歳の今、その心は倒れようとしている。千載一遇の機会を生かすことは難しく世の辛さを知りため息をつく。

 安政五年の冬、河井は長岡を離れ遊学の旅に出たのである。江戸や京都におもむき、自らを生かす道を探したのだ。旅の途上、河井は再生政権の達人の評判を耳にするのである。現在の岡山県備中松山藩の重役山田方谷である。急ぎ向かった河井は方谷と面会を果たした。河井の旅日記「塵壺」ここに河井が方谷に出会って早々に浴びせかけられた言葉が記されていた。「封建の世、人に使われること出来ざるは、つまらぬもの」今の世の中能力があっても藩に使われなければ意味がない。河井は自分が置かれた現実を見つめるよう諭されたものである。以後、河井は半年にわたり備中松山に滞在。方谷が成功させた藩政改革の様子を一つ一つ学んでいったのである。方谷は田畑を耕し、自ら質素な暮らしを実践しながら藩全体の勤約を指導していた。さらに備中鍬や和紙などの特産品を量産、それを江戸に運んで利益を生む藩財政の立て直しに大きな成果をあげていたのだ。方谷は改革の秘訣をこう語っていた。「古いものが老いて亡くなり若い者が成長して改革は成し遂げられる。成果が出るまでには時間がかかるものだ。」河井は方谷の下で藩政改革の工作だけでなく、それを生かすための心構えも学んだのである。
 元治元年、河井は江戸藩邸での勤務を命ぜられた。藩邸には当事幕府の住職老中を務めていた藩主牧野忠恭がいたのである。その牧野に対し河井は大胆な進言を行ったのである。老中を辞任すべきだと説いたのだ。老中職は一年で藩財政の四割を占め、二万両の支出を伴い重い負担になっていたからである。老中職の名誉を重んじる重役たちは激しく抵抗した。河井はこれに屈せず、まず財政負担を減らすことが先決だと時間をかけて説得を続けたのである。やがて藩の将来を第一に考える河井の意見に藩主の牧野忠恭は傾いていったのである。 委細は河井に任せたり。ついに河井は忠恭の信頼を得て藩政改革の第一歩を踏み出したのだ。その頃日本は動乱の時代を迎えていた。徳川幕府は京の都で反幕府勢力の長州藩に戦いを挑まれていた。さらにその戦後の処分にも手こずっていたのである。

 藩の力によって幕府が翻弄される状況について河井は家族に宛てた手紙の中で記していた。戦争は幕府が諸藩を制御する兼任を失ったことを示してしまった。長岡藩は今は藩主から領民まで規律を正し経済を豊かにし兵力を強くするしかない。長岡に戻った河井は藩主の強い後押しで昇進を重ね本格的な藩政改革に着手したのである。河井がまずを行ったのは長岡藩の最大の収入に米の販売方法の見直しであった。これまで商人に任せきりだった米の販売を藩が直接行うことで大きな利益を上げたのである。さらに城下町の近くを流れ防衛機構新潟にも通じる大動脈信濃川の流通にも目を向けたのだ。当時、信濃川を通行する船に対しては一部の商人が通行料を独占的に徴収していたのだが、河井はこの通行料を廃止したのである。流通を自由化することで経済を活性化させようとしたのだ。
 河井の藩政改革によって長岡藩の赤字は徐々に解消し始めた。この功績で家老に昇進した河井は語っている。これからも改革を着実に行って領民に富をもたらし、そして新潟港で軍艦も建造をして外国の侮辱を受けないようにしたい。しかし河井の奮闘をよそに時代は大きく動き続けていたのである。

 慶応3年10月、大政奉還幕府が朝廷に政権を返上し維新の戦乱が始まろうとしていたのだ。慶応3年12月、京の都は一触即発の時代を迎えていた。新政府が樹立され長州藩薩摩藩が軍隊を展開した。それに対し徳川家と会津藩を主力とする旧幕府勢力が対決の姿勢を強めていたのだ。このままでは内戦になってしまう。京に赴いた河井は朝廷に建白書を提出したのである。そこで河井は変乱を避けこれまでの幕府と藩による体制を維持すべきだと訴えたのである。戦乱がかえって国を強くするという説も一理はあるが、万国無比の平和を享受している今、国を強くするためとは言え変乱を醸そうとすることは天下の人身が納得しない。しかし河井の訴えは届かなかった。

 慶応四年正月、ついに鳥羽伏見の戦いが勃発したのである。近代的な兵器を駆使し朝廷を味方につけた新政府軍、旧幕府軍を次々と撃し退圧倒的な勝利を収めたのだ。この敗北を知った元将軍徳川慶喜は江戸へ脱出、新政府への降伏を誓ったのだ。勢いに乗る新政府軍は東へ進軍。最大の攻撃目標を新政府軍に刃向かった会津藩に定めたのである。そして北陸道を進む新政府軍は途中次々と諸藩を従え長岡藩に迫ろうとしていた。こうしたなか河井は江戸へと向かったのである。それは江戸にあった長岡藩邸を引き払うためであった。徳川家が力を失った今、江戸に拠点は必要ない、河井は美術品や茶器に至るまで売り払い、資金も潤沢に蓄えたのである。その資金を使って河井は横浜の外国商人から近代兵器を次々に購入していったのである。中でも河井が大金をはたいて手に入れたもの、それが機関砲ガトリング砲であった。短時間で多数の弾丸を連射することができる最新の兵器だ。


ガトリング砲

 当時日本にわずか3台しか輸入されていなかったうちの2台を河井が購入したのである。さらに長岡に戻った河井はこれらの近代兵器を藩の軍隊に導入し軍備の強化を図ったのである。新政府軍が迫る中、河井は戦乱に備えていた。
 閏4月21日、新政府は「政体書」を発布した。全国を府藩県の三つに分けて中央政府が一元的に調整する新しい国家体制を宣言したのである。地方が独自に家計を発行し外国と条約を結ぶことを禁ずる。新政府は地方の権限を制限し中央集権を固めていったのである。この国家体制を早急に築くために利用されたのが戦争であった。長州藩の指導者木戸孝允の言葉である。「戦争は体制一新の最良の方法である。」新政府は圧倒的な武力を背景に諸藩に兵士と資金の提供を要求し、拒めば軍事的に制圧することで地方を中央集権体制に組み込んでいったのだ。
 その頃ついに長岡藩にも新政府から恭順するよう命令が届くのである。これに対して長岡藩では議論が紛糾意見は真っ二つに分かれた。新政府には朝廷がついている。反旗を翻せば逆賊となる。新政府軍へ金と兵士を差し出すべきだ。新政府の実態は薩摩や長州でしかない。徳川に恩のあるものとして会津とともに戦うことが武士の道だ。藩内の議論が平行線をたどる中、河井は態度を明らかにしようとしなかった。新政府軍に抵抗すれば戦争は避けられない。しかし恭順したとしても藩士は会津との戦争に駆り出され、どちらにしても戦争に巻き込まれるのか。河井は長岡を戦争から救う方法を必死に模索したのである。
 閏4月26日、兵力5000を超える新政府軍の先発隊は長岡まであと数十 km の地点まで迫った。ここで河井は藩士たちに自らの考えを伝えたのである。今日においては勤王佐幕の論外に立ち、十万の民を収め持って諸候たるの責を全うするの外なし。長岡藩は新政府側にも会津側にも加勢せず、中立を保つことを宣言したのである。朝廷の権威と西から圧倒的な軍事力を背景に、諸藩を次々に従えてどんどん勢力を大きくしていた新政府軍と、それに対抗して徳川のため戦うという会津藩を中心とした東北諸藩、長岡藩はその地理的にも中間にあったのである。

 慶応4年5月、長岡の隣の小千谷に迫った新政府軍は会津進軍の途上にある長岡藩を目前にしていた。河井は中立を訴えるために自ら新政府軍と直接交渉することを決断するのである。
 新潟県小千谷市慈眼寺。当時新政府軍の宿営地だった寺の座敷が長岡藩の運命をかけて河井が望んだ交渉の舞台であった。新政府軍の出席者は4人。代表は24歳の土佐藩主岩村精一郎であった。岩村は河井を地方の藩の一家老と見下し尊大な態度で向かったのである。それに構わず河井は切り出すのである。まず長岡藩内の方針をまとめ、それから東北諸藩を説得して事態を収拾させたい。今直ちに新政府が長岡に軍隊を進めれば、天下の大乱を引き起こすだけである。河井は戦争を回避するためにまず時間の猶予を求めたのである。さらに河井は持参した嘆願書を差し出し新政府軍の指導部に取り次ぐよう要求するのであった。そこには河井が理想とする国のあり方がしたためられていたのである。「10万余りの領民が職業に励みに安心して暮らせるようにすることが私たちの使命です。一領一国のためではなく日本国中が協力して力を合わせ世界に恥じることのない強国になれば、これ以上の天下の幸いはありません。」
 しかし岩村は嘆願書に見向きもせずに言い放ったのだ。これまで長岡藩は新政府の恭順命令に従って来なかった。今更言い訳をするのなら戦場で相まみえるのみ。
河井の主張を単なる時間稼ぎと見た岩村は、わずか30分で交渉を打ち切ったのだ。長岡藩のみならず日本の将来を見越した河井の訴えは聞き入れられなかったのである。
 もはや残された道はひとつであった。長岡に戻った河井は兵士たちに語りかけた。わが長岡藩を蹂躙するものを許すことは出来ない。我が藩一藩になっても戦うのみ。河井は長岡藩の自立をかけて新政府軍と戦うことを決断したのである。

 5月10日ついに北越戦争の火ぶたが切られた。長岡藩の兵力1300人に対し新政府軍はその4倍の5000人。長岡藩は新政府軍に不意を突かれたのである。規模が小さく防衛力の長岡城に長州藩最強といわれた騎兵隊が奇襲攻撃を仕掛けてきたのだ。河井は長岡城にガトリング砲を据え自ら応戦。騎兵隊に痛手を負わせた。しかし三方面から次々に押し寄せる敵の攻撃はガトリング砲を持ってしても支えきれず、長岡城は新政府軍に奪われてしまったのである。それでも河井は抵抗を続けた。2ヶ月に渡って藩内各地でゲリラ戦を仕掛け、新政府軍を釘付けにしたのである。
 この頃、河井は激文を藩士達に配っていたのだ。それはみんなが理解できるように噛んで含めるような話し言葉で記したものであった。少し模様が変ずれば天下の諸侯が変心するから、それは敵も大変で天下を取ろうとしてした仕事は虚しくなる。城に戻り両3年もすれば元の繁盛にすることは確かに出来るから、ご一同共、必死を極めて勝ちましょう。長岡の繁栄を再び手にしようと河井は藩士たちを励ましたのである。
 一方、京の都では長岡藩の抵抗の知らせを受け新政府の首脳部が危機感を募らせていた。木戸孝允の言葉である。北越戦争は大事な戦いである。もし敗北すれば軍隊の規制は衰え転換が大瓦解する。長岡の戦いは新政府の存亡にも関わるとみた木戸は援軍を派遣したのだ。その到着よりも早く7月24日河井は自ら700の兵を率いて長岡城に陣取る新政府軍に総攻撃を仕掛けたのである。
 長岡軍の勢いに新政府軍が退去。河井はついに長岡城を奪い返すことに成功したのだ。しかしこれには大きな犠牲が伴った。河井が足に銃撃を受けたのである。深手を負った河井は指揮を取れなくなってしまったのだ。そこに追い討ちをかけるように新政府軍の援軍が次々に到着。21の藩、12000人の大軍勢で長岡に迫ったのだ。長岡藩主は城にこもって必死の抵抗を試みた。しかし新政府軍の物量の前に次第に劣勢に立たされていったのである。そして慶応4年1868年7月29日、長岡城は再び新政府軍の手に落ちてしまったのだ。河井と新政府の3ヶ月に及んだ戦争の末、長岡の町は焼け野原と化した。その後、新政府軍は長岡を通って会津藩を攻撃、これを屈服させやがて日本全土が中央集権の体制に組み込まれて行くのである。

 長岡から会津若松に向かう峠「八十里越」傷を負った河井がこの峠に差し掛かった時に読んだ句が伝えられている。
 「八十里腰抜け武士の越す峠」
 長岡から逃げ伸びる自らを欺けり腰抜けと詠んだ河井。その河井が目指す会津若松へ到達することはなかった。
 福島県只見町塩沢集落、長岡城陥落から16日後の慶応4年8月16日、傷が悪化した河井はここで力尽き42年の生涯を断ったのである。当時この集落の人々が建てた河井の墓がある。


福島県只見町にある河井継之助の墓

 墓石に河井の名前は刻まれてはいない。新政府軍に河井の墓だと悟られないようにするためだったと言われている。この集落では会津とともに最後まで新政府軍と戦った河井を忍び、今も現地に存在続けているのだ。

 無謀な戦争を始めたと批判されることを覚悟していたかのように河井が常々語っていた言葉がある。「天下になくてはならぬ人になるか、あってはならぬ人になれ」最後まで信念を貫き通した河井が常に自らへ向けていた言葉である。


(記者:関根)


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